最近、「倍速視聴」という4文字が視界に姿を現すことが少なくありません。これは、映像を早送りして視聴し、上映や再生に必要であるはずの時間よりも早くこれを見終えてしまうことを指すようです。
ただ、映画やテレビドラマのような映像作品の倍速視聴と、オンライン授業の教材として作られた動画の倍速視聴では、同じ「倍速視聴」という言葉が使われていても、話はたがいにまったく異なります。
私は、たとえば映画やテレビドラマについては、原則的に倍速視聴すべきではないと考えています。映画やテレビドラマは——藝術作品であるかどうかは今は措きますが——1つひとつが独立の作品であり、しかも、時間を素材とする作品です。言い換えるなら、映画やテレビドラマの場合、作り手が指定した時間を作品とともに過ごすことが作品の受容と一体をなすのです。
もちろん、倍速視聴でも、作品の「あらすじ」を辿ることができないわけではないかも知れませんが、映画やテレビドラマは、あらすじを伝えるために製作されるわけではなく、作り手が必要と考える時間の中で言葉の広い意味における「感動」を与えるのが作品製作の目的であり、観客は、あるいは、視聴者は、感動を与えるために必要であると作り手が考える時間を作品に捧げるのでなければ、作品を鑑賞したことになりません。倍速視聴によりあらすじを確認するのは、単なる「情報収集」にすぎないのです。
「映像作品をどのように扱おうと観る者の勝手ではないか」などとうそぶくのはかまいませんが、「倍速視聴はそれ自体としては鑑賞ではなく、したがって、倍速視聴しかしなかった者には、その作品について良し悪しを語る資格などない」ことは確かです。
しかし、オンライン授業の教材としての動画については、事情は異なります。私は、新型コロナウィルス感染症の流行が始まってから、現在まで、数え切れないほど動画を作ってきました。私自身の授業のための動画ばかりではなく、授業外に学部が主催して行われる行事のための動画も作りました。そして、これらの動画については、内容を完全に理解することができるのであるなら、このかぎりにおいて、学生が何倍速で視聴してもかまわないと私は考えています。
明治大学は、倍速視聴について、すでにパンデミックが始まった2020年の春学期中には、事実を把握し、全学的に情報を共有していました。しかし、何か対策が講じられることはなく、現在にいたるまで、倍速視聴は放置されています。再生のスピードは、それ自体としては問題ではないからでしょう。
映画やテレビドラマの鑑賞は、それ自体が目的であるような行為であり、したがって、これに費やす時間を短縮するのはナンセンスです。鑑賞が鑑賞であるかぎり、これは、何か他の目的を実現するための手段とはなりえないのです。
これに対し、オンライン授業のために私が作るような動画を視聴することは、知識の獲得の手段であり、それ自体が目的ではありません。私がしゃべる姿を「鑑賞」してもらうことは必要ではないのです。
ただ、当然のことながら、動画を再生する速度と内容の理解のあいだには、したがって、動画を再生する速度と成績評価のあいだにもまた、負の相関関係が認められるはずです。オンライン授業のための動画は、教員がそれなりの時間と手間をかけて作ったものであり、特にオンライン授業の場合には、動画は、知識を学生へ伝える唯一の手段です。学生が倍速視聴して完全に理解できるようなレベルのものであるはずがないのです。
教室を使った対面授業の場合、「倍速視聴」はできません。その代わりに、学生は、スマホをいじったり、内職したりすることで授業を妨害してきたわけです。
私は、2019年度までは、教室に学生を集め、そして、授業時間中、スマホや内職の取り締まりにおびただしい時間と体力を費やしてきました。これは、以前に書いたとおりです。
2020年度の春学期以降、この取り締まりがなくなった分、浮いた時間と体力を意義のある作業に向けることができるようになりました。
とはいえ、今度は、学生に動画を視聴させるための工夫に時間と体力を使うようになりました。精神衛生上、どちらを我慢する方が好ましいか、それは、おのずから明らかでしょう・・・・・・。