Home 世間話 いわゆる「表現の自由」の制限について(その1)

いわゆる「表現の自由」の制限について(その1)

by 清水真木

 現在のわが国の公共の言論空間では、「表現の自由」と呼ばれる事柄の意味と評価が繰り返し話題として取り上げられています。私は、表現の自由に関する「論争」——なるものが成立しているとして——を系統的に追跡しているわけではなく、具体的な事件との関連で視界に姿を現した個別の主張を記憶しているにすぎません。それでも、私の理解では、少なくとも現在では、この問題について発言する誰もが「言いっぱなし」であり、語られたことをすべて集めても、意味のある議論の体をなしていはいません。

 ところで、表現の自由は、日本国憲法の第21条によって国民に保証されており、基本的人権の一部をなすと一般に考えられています。それにもかかわらず、「表現の自由」については、制限を課すことの必要を主張する人が少なくありません。

 表現の自由は無際限に認められるべきであるのか、それとも、何らかの制限が必要であるのか、先に私の意見を明らかにしておくなら、私自身は、一方において、表現の自由がすべてに優先する無制約的なものであるという主張には同意しません。しかし、他方において、表現の自由は、法律や条例によって規制されるべきものではないと私は考えます。(それは、憲法第21条が禁じる「検閲」に当たります。)というのも、表現に自由には限度があるとは言っても、この限度は、状況によりたえず変化するものであり、法令によって定められるような性質のものではないからです。表現の自由の限界は、日本人の大多数によって、一種の「落としどころ」として暗黙のうちに共有されるのがふさわしいことであるように思われます。(したがって、私は、特定のタイプの作品を有害と見なして狙い撃ちするような法的な規制には断固反対します。)

 表現の自由なるものにはおのずから限度があると私が考えるのは、表現の自由が「自由」の一種であるかぎり、これは、何らかの「責任」と表裏をなしていなければならないはずだからです。そして、常識的に考えるなら、表現の自由と一体をなす責任とは、「公共の福祉を促進する責任」であるに違いありません。つまり、表現の自由は、公共の福祉を促進する責任によって制限されることが必要なものであることになります。

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