以前、次の文章を書きました。
以下は、この話の続きです。
インターネットというのは、それ自体としては社会の共有財産です。したがって、社会の必要に応じた使われ方が可能であり、実際、数え切れないほど多種多様な形態のもとで利用されています。また、情報通信技術の進歩とともに、使用法はとどまることなく拡大し続けています。
しかし、(官公庁や民間企業のような団体はさしあたり措き、)個人がインターネットを日常的にカジュアルに使用するとき、それは、ごく少数の私企業が提供する商用の「プラットフォーム」の利用を前提とするものへと集約されているように思われます。言い換えるなら、Google(YouTubeを含む)、Facebook(Instagramを含む)、Twitter、Amazon(、そして、日本ならLINE)に代表されるごく少数の企業のサービスがネット上のトラフィックの大半を集めているのです。インターネットが社会の共有財産であるという事実を考慮するなら、個人の(主にスマホによる)ネットの使用が、私企業による事実上の寡占状態に陥っているというのは、少なくとも私には異常に思われます。
プラットフォームが少数に限定されていることについて、一般の末端消費者にメリットがあるとするなら、それは、何よりもまず、「手間がかからない」ことでしょう。たとえば、動画再生について、同じような性格の、同じような規模の10のプラットフォームが競合しているときには、精度の高い横断検索のサービスでも生まれないかぎり、利用者は、10のサイトのそれぞれを訪れて動画を探さなければなりません。(この操作は、パソコンでは大した手間ではありませんが、スマホでは相当に大変です。)
しかし、現在のように、事実上ただ1つのプラットフォームが市場を独占しているなら、このような手間は不要です。提供するサービスは同じなのに、それぞれ使い勝手が微妙に異なる10のサイトを周回するのとくらべ、クリックしたりタップしたり、文字を入力したりするのにかかる時間とエネルギーを大幅に節約することができるのは確かです。10のサイトに滞在する時間の合計よりも、YouTubeにとどまる時間の方が長くなるはずです。(中篇に続く)