Home 世間話 ふたたび「手間のかかるインターネット」について、あるいは、集中から分散への道について(後篇)

ふたたび「手間のかかるインターネット」について、あるいは、集中から分散への道について(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「ふたたび『手間のかかるインターネット』について、あるいは、集中から分散への道について(前篇)」および「ふたたび『手間のかかるインターネット』について、あるいは、集中から分散への道について(後篇)」の続きです。

 しかし、問題の当事者となった従業員たちが、このようなプラットフォームを利用する代わりに、みずから開設したブログやウェブサイトに動画や写真を投稿し、知り合いにリンクを教えて共有し、コンテンツを消費することで満足していたなら、彼らの行動が不特定多数の目に触れることはなく、炎上することもなかったに違いありません1 。社会にとってよいことかどうかはわかりませんが、会社が事実を把握して従業員に損害賠償請求することもなかったはずです。「バイトテロ」の当事者となった従業員たち——いわゆる「バカッター」——は、非常識な軽率な行動を公表する方法について、驚くほど横着でもあったように私には思われるのです。

 しかし、現在では、インターネットの利用がこの横着によってすみずみまで支配されています。そして、人々が横着になった——「愚民化した」とはあえて言いませんが——おかげで、「横着ではない人間」「インターネットの利用に多少の手間がかかることを厭わない人間」のための広大な住み処が姿を現しつつあるように思われます。

 宇宙には無数の、それ自体がそれぞれ無数の天体からなる銀河があります。これらの銀河は、たがいに完全に独立していますが、それとともに、同じ1つの宇宙に属しているがゆえに、理屈の上では、銀河のあいだを移動することができないことはありません。

 同じように、インターネット上に作られた広大な言論空間は、少数のプラットフォームへと統合されるべきものではなく、むしろ、同じ関心、同じ好みを持つ者たちからなる緩やかな集団が、宇宙における星雲のように、言論空間のあちこちに三々五々形成され、引力と反発力のバランスによりたがいにほどよい距離を維持しつつ、しかし、必要に応じて複数の星雲を渡り歩くこともできる・・・・・・、このようにな、中心を欠いた「地方分権」の状態こそ、ネット上の言論空間にふさわしいのではないかと私はひそかに考えています。

 私自身は、何もかもが統合され集中した状態は、今後、極限まで進行し、しかし、その後、行きすぎた集中の反動として、特定の企業に依存しない分散が少しずつ始まることを予想し——私の予想は滅多に当たりませんが——また、期待しています。少数のプラットフォーム——宇宙になぞらえるなら、ブラックホールに当たります——へと多くのものが吸い込まれてしまったあとに生まれた虚空が、今、少しずつ姿を現そうとしているように思われるのです。

  1. 動画を共有したいのなら、YouTubeではなく、各種のストレージを使えばよいだけのことです。 []

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