日本政府は、ウクライナから周辺諸国に逃れた人々を支援し、場合によっては、このような人々を避難民として日本国内に大規模に受け入れることを計画しているようです。
日本に身元引受人がいるウクライナ人なら、これを拒む理由は何もありません。けれども、身元引受人を日本国内に持たないウクライナ人、つまり、日本に何のゆかりもな人々を——たとえ一時的な滞在者としてであっても——受け入れることについては慎重でなければならないと私は考えています。
理由は2つあります。
第1に、日本のどこかにすでに生活の基盤がある親族を頼って来日するウクライナ人は、日本の社会に一定の興味や親近感を抱いていると考えるのが自然です。したがって、このような人々は、日本の社会において支配的な常識をそれなりに尊重して生活するでしょう。
これに対し、日本に何のゆかりもない人々にとり、日本は、単なる避難場所にすぎません。日本のことを、最終的な目的地へと辿りつくためにやむをえず立ち寄った中継点としか考えないような人々もいるかも知れません。当然、このような人々に日本に対する愛着や興味、日本に関する知識を期待することは不可能です。彼ら/彼女らが日本の常識、慣習、ルールなどへの敬意を十分には持っていないとしても、それは仕方がないことなのです。
数日間、あるいは、数週間の滞在なら話は違うかも知れませんが、日本に何の関心もなく、ただ「他に行くところがない」というだけの消極的な理由によって、このような人々が数ヶ月、数年、あるいは、数十年ものあいだ日本にとどまることに日本人が耐えられるのか、私には大いに疑わしく思われます。
ウクライナからの避難民を受け入れることに無邪気に賛成する人々は、日本人が親切な態度で避難民に何かを差し出せば、彼ら/彼女らは、これをよろこんで受け取り、そして、日本人に感謝するに違いない、そして、日本の社会に同化したいと思うに違いない、などという期待を抱いているように見えます。しかし——もちろん例外はありうるとしても——これは甘い幻想です。たとえ日本にゆかりがある人々でも、戦争と祖国のことで頭がいっぱいであり、日本人の「おもてなし」(笑)を受け止めるような心の余裕はないでしょう。まして、身元引受人もないまま「他に行くところがない」という理由で来日した人々にとっては、「おもてなし」(笑)など押しつけがましく感じられるだけでしょう((わが国が売りものにしてきた「おもてなし」(笑)というのは、独善と押しつけがましさを本質とするものなのです。))。