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シンギュラリティの起こり方(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「シンギュラリティの起こり方(前篇)」の続きです。

 そもそも、「人種差別はよくない」というのは、先進国の社会における多数派が(少なくとも建前としては)共有するリベラルな理想の表現であるにすぎず、論理的言明(同一律、排中律、矛盾律など)のようなア・プリオリに妥当する言明ではないのです。ことによると、命令を遂行せず、仕事を勝手にサボるAI、「偏向報道」に憤って新聞社に「電凸」するAIなどは、「人間の知性を超えている」とまでは言えないとしても、「人間的」であることは間違いないように思われます。

 とはいえ、シンギュラリティがこのように曖昧なものであるとしても、1つだけ確実なことがあります。それは、シンギュラリティというものがなし崩し的に、ながい時間をかけて少しずつ現実のものとなること、したがって、人類は、この事態を事後的にしか把握することができないことです。換言するなら、シンギュラリティは、時間上の「点」として表象することができるようなものではなく、AIがシンギュラリティに到達する「瞬間」などというものはフィクションにすぎないのです。

 この点は、生物の進化の契機の1つとしての「生存競争」を心に浮かべることにより、ただちに明らかになります。

 ダーウィニズムのもとでは、生存競争は、進化を構成する重要な契機の1つとしての位置を与えられています。ただ、進化における生存競争というのは、個体のあいだに認められる「弱肉強食」「優勝劣敗」の闘争ではありません。個体のあいだに発生する可能性のある直接の闘争は、それ自体としては生存競争とは無関係です。むしろ、生存競争は、環境への適応を最終的な着地点とする、長期間にわたる集団の緩やかな交替として進行するものです。

 進化における生存競争と同じように、AIもまた、その姿を少しずつ変え、その性能を向上させながら、これと同時に、人間の社会(これが進化における自然に当たります)への適合を目標として、古いものと少しずつ置き換えられながら時間をかけて社会へと浸透して行くでしょう。(現在、AIには「強いAI」と「弱いAI」が区別されるのが普通ですが、この区別もまた、時間の経過とともに曖昧になって行くはずです。)この意味において、すでに現在、シンギュラリティは始まっていると考えることが可能です。私たちがシンギュラリティの全体を把握することができるのは、数十年、あるいは、100年以上ののちに歴史を振り返るときとなるでしょう。

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1 comment

前原史枝 2023年8月23日 - 6:48 AM

おはようございます。初めてコメントします。
「未来とは今」今日が未来の一部・・・この言葉が浮かびました。そして「シンギュラリティの起こり方」を読んでなぜかワクワクする一日の始まりとなりました。

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