人名が映す時代
私たちは誰でも名前を持っています。そして、その名前は、当人の生まれた環境を何らかの形で反映しています。社会制度や文化に変化が認められると、命名の全体的な傾向もまた、その変化に敏感に反応し、これに追随することが少なくありません。どの時代においても、老人の名前には、若者の名前とは明らかに異なる特徴が認められるのが普通です。この事実は、それぞれの時代において異なる支配的なものの見方が名前に反映されているからであると考えることができます。
大衆の目に映る社会の姿が命名に直接に影響を与えていた時代として誰もが想起するのは、20世紀前半のわが国の状況でしょう。たとえば、元号が大正から昭和に代わるとともに、それまで日本人にはなじみのなかった「昭」という漢字を含む人名がランキングの上位を占めるようになります。1926(昭和元)年までに生まれた人々の名前で「昭」を含むものはほぼゼロであるはずです。また、これもよく知られているように、「紘」「溥」という珍しい漢字を含む名前は、昭和10年代に集中しています。(それ以前にはほぼゼロ、それ以後も、決して多いとは言えないはずです。)この事実もまた、時代によって説明することが可能です1 。
21世紀前半の現在では、新たに生まれる子どもに与えられる名前には、全体として、社会との関連を持たないものが多いように見えます。しかし、これまで説明してきた観点から眺めるなら、この事実は、命名が社会の変化に反応しなくなったからであるというよりも、むしろ、社会の影響をあえて遮断するための不知不識の「寝返りを打つ」努力の結果として受け止めることができます。そして、いわゆる「キラキラネーム」というのは、社会との対決のために試みた「寝返り」の勢いが強すぎた結果として生まれた過渡的な産物であるのかも知れません。「キラキラネーム」にすら、社会に対する一種の態度表明としての側面が認められるのです。
時代を映すのは、日本人の名前にかぎりません。欧米において、新たに生まれる子どもの名前は、聖書、ギリシャ神話を始めとする各種の伝説、あるいは、古代の人名から採られる場合が多く、その分、いくらかの流行廃りはあるものの、時代の影響を受けることが少ないように見えます。実際、今年生まれた子どもに与えられたファーストネームのランキングで上位を占める名前はいずれも、すでに500年前には同じように使われていたものであるはずです。
もちろん、最近は、特にアメリカにおいて、新たに生まれる子どもに対し非伝統的で風変わりな——日本の「キラキラネーム」に相当する——名前をつける親が多いようです。また、このような命名は、黒人のあいだで特に多いと一般に考えられています。非伝統的で目立つ名前が特に黒人に多いのには、いくつもの理由があるに違いありませんが、それらはいずれも、21世紀のアメリカ社会に固有の事情を反映するものなのでしょう。
シンプリキオスとは
ところで、人名と時代のこのような関係をある時代の空気を教える人名は、非常に古い時代にも見出すことができます。私がここで取り上げるのは、6世紀前半の哲学者シンプリキオスです。
シンプリキオスは、アリストテレスの著作のいくつかについて註解(スコリア)を遺したことで知られる新プラトン主義者です。アリストテレスの著作に対する彼の註解は——「註解」という体裁を与えられているにもかかわらず——アリストテレスの正確な解釈を目指すものであるというよりも、むしろ、「プラトンとアリストテレスの調和」という彼の持論をアリストテレスのテクストを素材として証明する試みとして受け取られるべきものです。実際、シンプリキオスの言葉には、先入見にもとづく無理な深読み、誰の目にも明らかな雑な読み飛ばしが少なくありません。この意味において、彼の註解は、アリストテレスの解釈について現代の読者を裨益することはないように思われます2 。
それにもかかわらず、シンプリキオスの註解の多くは、失われることなく現在に伝えられています。というのも、その本文が、いわゆる「ソクラテス以前の哲学者たち」を中心とする、現代に著作が伝わっていない古代の哲学者たちのテクストの引用を大量に含むからです。
「ソクラテス以前の哲学者たち」の手になるおびただしい著作のうち、完全な形で現在まで伝わっているものは1点もありません。シンプリキオスは、当時はまだ残っていた彼らの著作を実際に手もとに置いて註解を執筆したと推定されています。それだけに、彼の註解は、紀元前6世紀と5世紀の哲学者たちの言葉を直に伝える資料として他に代えがたい価値があると考えられてきました。実際、ギリシャ哲学に興味のある人々にとり、シンプリキオスは、「(読んだことはないが、)いろいろな機会に名前を見かける人物」であるに違いありません。
Σιμπλίκιοςは「キラキラネーム」か
ただ、ギリシャ哲学に興味のある人々にとりなじみのある名前であるにもかかわらず、ギリシャ語とラテン語の知識が少しでもあるなら、「シンプリキオス」という名前を目にするたびに、誰でも違和感に襲われるはずです。文字面をごく素朴に眺めるかぎり、「シンプリキオス」(Σιμπλίκιος) というのは、明らかに風変わりな名前だからです。私は、この名前に初めて出会ったとき、これは古代末期の「キラキラネーム」に違いないと思ったことを憶えています。
それでは、なぜΣιμπλίκιοςが「キラキラネーム」に見えるのか。理由は2つあります。
第1に、μπλという3つの子音の連続が、古典ギリシャ語における子音の連結に関する規則に明らかに反するからです。ヘレニズムまでのギリシャ人なら、このような人名を決して許さなかった——というか、そもそも発音できなかったかも知れない——はずです。
第2に、この綴りがラテン語で「単純な」を意味する形容詞”simplex”を連想させるからです。そのせいで、「シンプリキオス」の名を初めて見たとき、私は、これが「シンプリキウス」の誤植ではないか、さもなければ、この人物が実は「シンプリキウス」(Simplicius) という名のローマ人なのではないかと疑いました。実際、古代史には、Simpliciusという名の人物が複数その名をとどめていますが、彼らはいずれもローマ人です。(なお、”simplicius”は、普通のラテン語としては、形容詞”simplex”の比較級の中性単数形、または、”simplex”の副詞形”simpliciter”の比較級に当たります。)
シンプリキオスの生涯について、具体的なことはほとんど知られていません。アナトリア半島南部のキリキア地方の出身であること、アテナイとアレクサンドリアにおいて当時の新プラトン主義を代表する哲学者たちに学んだあと、おそらく主にアレクサンドリアを拠点として活躍したことが伝えられているだけです。また、さまざまな状況から、シンプリキオスは、6世紀初めのアテナイにおいて、当時その歴史を終えようとしていたアカデメイアで学んだ時期があると推測することができます。そして、これが事実であるなら、シンプリキオスは非キリスト教徒であった可能性が高いことになります。529年のアカデメイアの閉鎖のあと、彼がどこで何をしていたのかは必ずしも明らかではありませんが、当時アカデメイアに拠っていた哲学者たちの多くと同じように、サーサーン朝ペルシャのホスロー1世のもとで短期間庇護を受けていたことは間違いないようです。
シンプリキオスについて知られている事実、そして、事実にもとづいて推測あるいは想像されることを総合しても、しかし、その人生には、”simplex”という形容詞を想起させる響きを持つことを説明するほどのラテン語との強い結びつきを告げる要素は見当たりません。彼の著作はすべてギリシャ語で執筆されたものであり、ラテン語への特別な思い入れを示す事実は伝わっていません。イタリア半島に特別な縁があったわけでもないようです。
それなら、明らかにラテン語を連想させるような、しかも、ギリシャ語としては破格な名前がなぜ生まれたのか。残念ながら、私には、この点について断定的なことを語る材料がありません。ただ、さまざまな状況をもとに、(古典期やヘレニズムのギリシャ語とギリシャ文化を基準にした場合には)「キラキラネーム」にしか見えない名前が映す当時の世界について想像をめぐらせることは可能であるように思われます。
退廃と融合と再生と
シンプリキオスが活躍したのは、6世紀の前半の地中海世界です。すでに西ローマ帝国はなく、また、彼が生活していた(キリスト教化した)東ローマ帝国では、皇帝の圧力のもとで、アテナイのアカデメイアが閉鎖の危機にありました。実際、シンプリキオスが存命中の529年、アカデメイアは、皇帝ユスティニアヌス1世の命令で閉鎖されます。シンプリキオスは、古典期以来の約1000年にわたる1つの時代が終わろうとしていた時代に生きていたことがわかります。
また、この時代は、ギリシャとローマの文明を支えてきた文化的、社会的な制度、公教育のシステム、政治体制、宗教的儀礼、知的生産の枠組などが動揺、消滅し、古代の地中海世界が解体に向かっていた時代でもあります。プラトン以来約1000年の歴史を持つアカデメイアの閉鎖は、古代の終わりを告げる象徴的な出来事でした。
一方において、何百年にもわたりローマ人たちの「我らの海」(mare nostrum) であった地中海を取り囲む沿岸地域は、帝国の滅亡とともに政治的な求心力を失い、反対に、言語、文化、宗教、政治体制などの面で強い遠心力が生まれた時代でした。「分断」は、現代の社会における特徴の1つと一般には考えられていますが、西ローマ帝国滅亡後の地中海世界は、現代とは比較にならないほど多元的な「分断」に囚われていた時代であり、いたるところで対立、停滞、軋みが目立つ社会であったと言うことができます。
とはいえ、他方において、この時代に新たな「融合」の端緒が見出されることもまた事実です。実際、この時代の歴史の表面に生き生きとした姿をとどめるものは、宗教、文化、言語、政治のいずれにおいても、さまざまな地域に由来する異なる伝統の「混血」の相貌を具えています。「混血」とは、各種の異なる伝統が完全に融合し、新たな種が生まれる手前の段階に他なりません。
ギリシャ、ローマの哲学や文学に関心がある人々の多くは、私を含め、古典期やヘレニズムを基準にして古代末期を眺め、「この時代に生まれたものに見るべきものはない」と判断しがちです。古代末期とは、単なる退廃と没落の時代であり、文化的伝統の破壊の時代、ギリシャ人とローマ人が築き上げた文明が乱暴に破壊されたあとにその残骸を乱雑に組み立てることで成立したバラックの時代にすぎないからです。
しかし、見方をあらためるなら、この時代は、混乱と新たな融合の中から、中世ヨーロッパやイスラム世など、世界の新たな枠組の輪廓が明らかになるまでの過渡期、次の時代への助走の時期でもあります。実際——私自身は、この分野には必ずしも通じていませんが——最近数十年のあいだ、歴史の専門家のあいだでは、古代末期をこのように肯定的に捉える傾向が支配的であるようです。
「混血」的人名
この融合は、人名についてもまた認めることができます。遅くとも3世紀以降の歴史にに名を遺すローマの政治家、軍人、知識人などにギリシャ風の名前が多くなるのです。哲学者から1人だけ具体例を挙げるなら、ボエティウスがこれに当たります。
「ボエティウス」(Boethius) ——これはファーストネームではなくファミリーネームです——には、聞く者にギリシャ語の響きを感じさせます。ギリシャ語の知識が少しでもあれば、“Boethius”という名前の背後に、「援助する」を意味するギリシャ語の動詞”βοηθέω”を聞き取ることは困難ではありません。また、ラテン語では、”th”という文字の連続は、原則としてギリシャ語に由来する外来語にしか現れません。
たしかに、以前から、ギリシャ風の名前を持つローマ人がいないわけではありませんでした。しかし、それは、ギリシャに由来を持つ解放奴隷やその子孫であり、彼らの名前がギリシャ風である理由は明白でした。これに対し、ボエティウスの場合、彼のファミリーネーム(nomen)がギリシャ風である理由は明らかではありません。
さらに、古代末期には、知的活動ではギリシャ語のみを用いたのに、その母語はギリシャ語でもラテン語でもなく、ギリシャ語ともラテン語とも直接には関係がない名前を持つ哲学者すら珍しくなくなりました。このようなタイプの名前の代表として私の心に最初に浮かぶのは、3世紀から4世紀に生きた新プラトン主義の哲学者イアンブリコスです。彼の名前Ἰάμβλιχοςは、シリア語あるいはアラム語の人名をギリシャ語化したものであるらしく、おそらくそのせいなのでしょう、これは、ギリシャ語の綴りとしては異様です。
この時代のギリシャ語は、ラテン語を始めとする他言語との長期間にわたる接触のせいで、古典期やヘレニズムの時代なら不可能であった破格を許容するようになっていたのでしょう。「シンプリキオス」(Σιμπλίκιος)が、6世紀の地中海世界においてそれなりに目立つ名前であったことは確かです3 。Σιμπλίκιοςというギリシャ語を耳にして、「何だかヘンな名前だな」と感じる者は一定数いたはずです。しかし、私の想像では、ギリシャ語とラテン語の両方に通じた少数の知識人は別として、「混血」的な人名に慣れた当時の普通の人々は、この名前を耳にしても、ラテン語の形容詞”simplex”と強く結びつけることはなく、したがって、違和感を抱くこともなかったのではないか、私にはそのように思われます。むしろ、現代のギリシャ語学習者の方が、この点についてよほど狭量であるかも知れません。
私には、「シンプリキオス」という名前の正確な由来について断定的なことを語ることはできません。それでも、風変わりな名前であることは確かであるとしても、6世紀の地中海世界の文化的、社会的な状況を考慮すると、この名前は、異常というほどではなかったに違いないと推測することができるだけです。
「シンプリキオス」という名前は、彼が生きた時代を映しています。これは、「キラキラネーム」として受け取るられるよりも、むしろ、古代末期の文化的な混沌の1つの断片として肯定的に扱う方が適当であるように思われます。同じように、私たち一人ひとりが持つ名前もまた、生まれたときの社会の(全部ではないとしても、少なくとも)ある側面の直接あるいは間接の表現と見なすことが可能なのです。
- 「紘」は「八紘一宇」に由来し、「溥」は「愛新覚羅溥儀」に由来します。 [↩]
- シンプリキオスが、これから本文で説明するような特徴を持つ彼の同時代に対してどのような態度をとったのか、これを直に知る手がかりは何もありません。ただ、大きな転換期、しかも、哲学者にとり生きやすいとは言えない転換期において、シンプリキオスが——そして、その前後の世代の哲学者たちが——アリストテレスの著作を註解するという試みに対し哲学の伝統を後世に伝える役割を託していたことは間違いないように思われます。 [↩]
- ギリシャ風の名前を持つローマ人はたくさんいても、その逆、つまり、ローマ風の名前を持つギリシャ人はほぼゼロです。少なくとも文化面では、ギリシャ語がラテン語よりも文明的で高級な言語であるという暗黙の了解が広い範囲で共有されており、ギリシャ人がみずからの名前や子どもの名前をわざわざローマ風にする理由がなかったからです。よく知られているように、古代の地中海世界では、ギリシャ語とラテン語という2つの言語がlingua franca(国際共通語)として使用されていました。しかし、ラテン語の国際共通語としての地位を支えていたのは、主に西ローマ帝国の政治と社会制度でした。ラテン語は、何よりもまず、政治と行政の言語だったのです。当然、シンプリキオスが生きた帝国滅亡後の時代には、地中海世界におけるラテン語の地位は低下し、ラテン語を解さないギリシャ人、ラテン語の知識を不要と見なすギリシャ人は珍しくありませんでした。 [↩]