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ホームセンターの愉しみについて、あるいは、「他の日常」へのまなざしについて

by 清水真木

 私が好きな空間の一つに「ホームセンター」があります。この場合の「ホームセンター」とは、個人が経営する小規模な荒物屋ではなく、主に郊外の幹線道路沿いにある大型の店舗を意味します。

 私は、何千平方メートルもの売り場を持つ広大なホームセンターに足を踏み入れ、店内の通路を歩き回るたびに、みずからが軽い興奮状態に陥ることに気づきます。ホームセンターほど面白い場所は他にない、とまで言うつもりはありませんが、それでも、ホームセンターを歩き回って過ごす1時間は、中途半端なテーマパークや百貨店などで消費される同じ1時間などよりもはるかに豊かであると私は信じています。

 大型ホームセンターは、現代の日本人の逍遙(フラヌリー)のための自由な空間であり、(200年前のパリのパサージュと同じように)広大な売り場を縦横に走る通路は、万人を「フラヌール」へと変化させる力を具えているように思われます。というのも、外界から切り離された巨大な空間の内部を歩き回ることにより、色褪せた平凡な日常が「異化」され、普段の生活を支える物理的な環境が不透明なものとして否応なく注意を惹くものとなるからです。

 一方において、ホームセンターに陳列される商品はいずれも、日常生活またはその延長上にある活動に関わります。台所用品、園芸用品、DIY用品、アウトドア用品、薬品、化粧品、電気器具など、ホームセンターが販売するものは例外なく、平凡な日常生活の物理的な環境を形作る実際的な要素なのです。この意味において、ホームセンターは日常によって支配されている、あるいは、ホームセンターには日常が横溢していると言うことができます。

 しかし、他方において、ホームセンターの売り場がすべての素材を日常生活に仰いでいることは、ホームセンターが日常の再現であることを意味しません。むしろ、ホームセンターにおいて誰もが目にするのは、「解体された日常」です。というのも、その空間では、日常生活を支えているはずの複雑きわまる物理的な環境を無数の小さな「素材」あるいは「パーツ」へと分解し、これらを極端に単純な新しい秩序に従って排列することが試みられているからです。

 たとえば、「食器を洗う」ことは、日常を構成する要素の1つであり、誰にとっても馴染みのある行動です。そして、「食器を洗う」と名づけられるこの複雑な行動は、水道の蛇口をひねって水を流す、スポンジと洗剤を取り出す、食器の汚れを落とす、水切りカゴに食器を並べる(あるいは積み上げる)、食器の水気を拭き取る、食器棚に食器をしまう、などの一群の動作へと分解することが可能です。これらの動作の自然な連続こそ、「食器を洗う」ことの意味に他なりません。

 また、「水道の蛇口」「排水口」「食器」「スポンジ」「洗剤」「水切りカゴ」「布巾」「食器棚」などの物体はいずれも、私たちに馴染みのあるものですが、それは、これらの物体が「食器を洗う」という文脈の内部においてたがいに出会われるからです。換言すれば、これらの物体が取り集められることによって「食器を洗う」という行動が物理的に成立するとともに、これらの物体が日常生活において持つ意味は、「食器を洗う」という行動の文脈によって与えられることになります。台所用の洗剤とスポンジが出会うのは、「食器を洗う」という行動の内部においてのみであり、また、洗剤とスポンジの台所における出会いは、「食器を洗う」という行動を予想させる――勿体ぶった表現をあえて用いるなら、「アフォード」する――のです。

 ところが、ホームセンターでは、「食器を洗う」という総称のもとに統合される一群の動作を支える物理的な構成要素が、同じ1つの場所に集められることはありません。私が自宅で使っている洗剤は、他のメーカーの洗剤とともに、洗剤の売り場に置かれます。そして、スポンジは、洗剤の売り場から何十メートルも離れた台所掃除用品の売り場に、異なるタイプのスポンジやタワシなどとともに陳列されます。さらに、「食器を洗う」場面では洗剤やスポンジに近接した地点に位置を占め、これらとともに1つの作業を成り立たせているはずの水道の蛇口は、水回りの修理のための工具や材料が並べられた一角に、さまざまなタイプの蛇口やそのパーツとともに置かれ、そこに辿りつくためには、スポンジの売り場から何分か歩かなければなりません。そして、食器は、さらにそこから何分か歩いたところにある棚に並べられます……。ホームセンターは、日常生活の物理的な環境を最小の構成要素へと分解し、そして、この構成要素を非日常的な、そして、単純な秩序にもとづいて排列していいると言うことができます。

 洗剤とスポンジと蛇口と食器は、「食器を洗う」という日常的な複雑な行動において分かちがたく結びつけられていると私たちは思い込んでいます。しかし、これらは、ホームセンターという空間の内部では、それぞれ異なる位置と異なる意味を与えられ、私と日常のあいだに空隙が生まれます。

 商品のこのような配置は、普段は注意の主題的な対象となることのない日常生活の物理的な環境が安定したものではないことを告げているように見えます。ホームセンターの内部を逍遙し、同じ用途の道具――たとえば園芸用の鋏――を比較したり、未知の道具を発見したりすることにより、現在進行中のみずからの日常生活が、物理的な環境という点において、多種多様なモノのあいだの考えうるかぎり最良の、そして、微妙な組み合わせによって成り立っていたことに気づき、自分の幸運にひそかに感謝するかも知れません。あるいは、反対に、この「フラヌリー」は、「食器を洗う」「掃除する」「草むしりする」などの行動を構成する物理的な要素を別のものと交換することにより、生活の一部により好ましい秩序を与える可能性を示唆することもあるでしょう。

 ホームセンターは、日常生活を形作る文脈を解体し、その素材を非日常的な秩序にもとづいて排列します。そして、この排列は、現実の日常に似た、しかし、これとは微妙に異なるさまざまな可能世界、いわば「他の日常」へと私たちの想像を誘います。世の中には、映画館、リゾートホテル、プラネタリウムなど、「非日常」的な体験を訪れる者たちに約束する施設は珍しくありません。しかし、私たちのまなざしを「日常」へと自然に向かわせる施設は、私の知るかぎり、ホームセンターを措いて他にないように思われます。

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