※この文章は、「他人のカネを預かる覚悟について(前篇)」の続きです。
この煩雑さは、ペーパーワークを大の苦手とする私に外部の研究資金の獲得を諦めさせるのに十分なものであり、実際、会計処理を苦にしないような研究者でも、大学からミスを指摘されることは珍しくありません。(以前、科研費を取得したときには、会計処理の面倒を避けるため、「請求書払い」が使えないものは買わないことを原則にしていたほどです。)
他人から預かったカネを使うときには、適切な書類をその都度用意しなければならなりません。これは、私のような人間にでもわかる大人の常識です。しかし、ネットで流れている情報を見るかぎり、上記の記事が取り上げる一般社団法人は、この最低限の常識を共有していなかったように見えます。むしろ、一部の不確かな証言を信用するなら、この団体は、内部での会計処理を普通の基準に適合させるよう努力するのではなく、反対に——理由は明らかではありませんが——委託事業費の使途について細かい会計処理や報告を免除するよう東京都に働きかけていたようです。
しかし、税金を原資とするカネは、他人から預かったカネの中でも、(支出の意義は今は措きますが、)少なくともその「行方の透明性」の確保について特に高度の努力を要求するものであるはずです。
世の中には、医師やスポーツ選手から大手ゼネコンまで、政府や自治体の補助金や助成金を受けて事業を遂行している人々や団体が少なくありません。そして、このような事業は、会計処理に関し、私などよりもはるかに厳しい要求に普段からさらされています。
これまでネット上で証拠とともに明らかにされている情報がすべて事実であるなら、一連の出来事のうち、杜撰な会計処理は、これ自体としてすでに、平均的な日本人の目に許容範囲を超える甘えあるいは開き直り1 と映るに違いありません。冒頭の記事が取り上げている事件が膨大な数の外野を巻き込んで「炎上」したのは、この意味において当然のことであると私は考えています。必要な書類が適切に開示され2 、問題の全体が明らかになり、平均的な日本人が適正と思われる状態が回復されることを願っています。
少なくとも民主主義の社会では、他人のカネを預かる権利は、使用したカネを行方を透明にする義務と一体をなしています。扱う金額が大きくなり、カネの使途が複雑になるとともに、ペーパーワークに必要な時間と体力もまた増えて行きます。他人のカネを預かるには、相応の覚悟が必要なのです。
- 「崇高な理想を掲げて活動する者を攻撃することは、その理想に対する攻撃である」というのは、論点のすり替えです。
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- 私のような単なる見物人の目に触れるような形で開示することが必要であるかどうかはわかりませんが。 [↩]