古典的な文学作品、特に長篇小説を読んでいると、退屈であるばかりか、表面的に理解することすら困難な描写や記述に出会うことが少なくありません。
もちろん、このような退屈なセリフや行動の中には、特定の登場人物や状況への共感を妨げるための工夫として作者によって故意に挿入されたものがないわけではないでしょう。
ただ、このような退屈な描写や記述が何らかのシグナルとしてわざと挿入されたものであるかぎり、退屈な描写や記述は、他ならぬ退屈なものとして読者に必ず受け止められ、読者に必ず退屈を感じさせなければなりません。ある退屈な描写や記述が、作者の意図に反し、それ自体として読者の目に興味深いものとして読者の注意を惹くことがあるなら、それは、(構造主義やポスト構造主義の影響を受けたようなアクロバティックな読み方に従うのではなく、)小説の受容に関する常識的、平均的な理解に従うかぎり、作品が作品として失敗していることを意味するはずです。
しかし、長篇小説の中には、このような特別な意図にもとづいて挿入されたわけでもないのに、それでも退屈に感じられたり、共感を妨げたりするような描写や記述というものが散見するのが普通です。世界文学の古典でも、世に送り出されたばかりのライトノベルや探偵小説でも、事情は同じです。長篇小説を読んでいるとき、「なぜこのような心に響かないセリフのやりとりが物語に組み込まれているのか」「これほどヒネりのない設定では、前半を読んだだけで結末がわかってしまうではないか」・・・・・・などという疑問が心に浮かび、先を読み進める意欲を失うことは珍しくないでしょう。
それでは、小説の読者を襲うこのような退屈にはいかなる態度をとればよいのか?この問題について、私自身は、これまでながいあいだ、次のように自分に言い聞かせてきました。
すなわち、「この退屈なセリフは、今の自分の心にはまったく響かないし、読み始めた途端にオチがわかってしまうようなつまらないストーリーを肯定的に評価することはできないが、やがて年齢と人生経験を重ねてから再読すれば、その意味や価値がわかるようになるに違いない、だから、時間をおいてまた読みなおしてみよう、作品の評価はそのあとだ」、私はこのように考えてきました。
そもそも、読者の年齢、読者の経験、読者の環境に応じてその意味や味わいを変え、たえず異なる相貌を読者に示すこと、換言すれば、一人の読者によってながい人生の中で繰り返し読まれるに値することこそ、古典的な文学作品が古典と見なされる所以なのです。実際、若いころにはサッパリ面白くなかった文学作品を年齢を重ねてから再読し、その意義を初めて理解する1 というのは、誰にとっても馴染みのある経験であるに違いありません。当然、反対の経験もまた、決して珍しくはないはずです2 。
ただ、最近は、残念ながら、小説に退屈を覚えたとき、「時間をおいて再読すればこの作品を面白いと感じられるようになるはずだ」と前向きに現状を捉えることが、私にとっては昔ほど容易ではなくなってきました。退屈な描写や記述に出会ったとき、今後の人生において、これが面白く感じられるときが将来のいずれかの時期に訪れることに確信を持てなくなってきたのです。ことによると、古典的な長篇小説について、これが著された時点での作者よりも私の方が年長である場合が多くなったせいかも知れません。(2024年現在、私は、『ドン・キホーテ』を公刊したときのセルバンテスの年齢には達していませんが、すでにシェイクスピアよりもながく生きています。)また——質の方は今は措くとしても——少なくとも量の点ではそれなりの人生経験を背負って古典的な作品に向き合いながら、それでもなお面白いと感じられないなら、それは、作品が要求する解釈が、私の読解能力の限界を超えているからなのかも知れません。
文学作品というのは、たとえ古典であるとしても、読者に我慢を求めるものであるはずはありません。退屈をこらえながら、眠気と戦いながらでなければ読み進められないようなものは、読者のまなざしが最初のページの最初の行から最後のページの最後の行まで文字を追ったとしても、読まれたことには決してならないと考えるのが自然です。
私の場合、以前は、「古典的文学作品=必ず読むべきもの」という固定観念に囚われ、苦行としての読書に多量の時間と体力を費やしてきました。しかし、このような読書が人生に与えた好ましい影響は、ゼロにかぎりなく近いように思われます。
現在でもなお、私は、みずからの人生に普遍的な意義を与えるような読書の経験が古典に属する書物からしか与えられないとかたく信じています。
それでも、最近は、「全部の古典を読み尽くさなければ」という焦燥感からは解放され、どうしても読み進められなければ、「この作品とは縁がなかった」とアッサリ諦めることができるだけの気持ちの余裕が生まれました。これは大変にありがたいことです。
なお、私の場合、もっとも苦手とする古典的な文学作品の作者の代表は宮沢賢治です。宮沢賢治の手になるもので、私がこれまでに読んだ——というか、がんばって目を通した——のはごく少数の短篇にすぎません。もちろん、彼の作品は、正真正銘の古典ですから、小学5年生のときにその名を知ってから、ごく最近まで、宮沢賢治には何回も挑戦し、しかし、そのたびに、退屈のあまり途中で投げ出してきました。残念ながら、宮沢賢治の文章には、私にとっては生理的に受けつけられない「何か」があるようです。
- その意義は、しかし、読者の年齢に合わせて作品が示す相貌の1つにすぎないと考えるのが自然であり、読者の方がさらに年齢を重ねることにより、作品がさらに新たな姿を見せることになるでしょう。 [↩]
- 中学生のころに夢中になって読んだ小説を大人になってから読み返してガッカリしたことが何回もあります。 [↩]
1 comment
私はスタンダールの『赤と黒』に何度も挑戦していますが、どうしても読み進めることができません。
清水さんみたいに「この作品とは縁がなかった」とアッサリ諦めることができるのは大事かもしれません。
サバティカル、どちらの国なのでしょうか。
私の知り合いからサバティカルの話をよく聞いていました。
お体を大切に、充実した日々を過ごされてください。