Home 世間話 公共の交通機関はどのような意味において「公共」であるのか(前篇)

公共の交通機関はどのような意味において「公共」であるのか(前篇)

by 清水真木

 しばらく前、次の文章を書きました。以下は、これに関連する話です。

 私たちは、普段の生活において、バス、電車、タクシー、旅客機などの移動手段を使っています。これらは、一般に「公共交通機関」と呼ばれます。

 公共交通機関のうち、あるもの、たとえば東京の都営地下鉄や、横浜市の横浜市営地下鉄などは、地方公共団体によって運営されています。しかし、全体として見るなら、これらは例外であり、公共交通機関はほぼすべて民間企業によって運営されています。

 それにもかかわらず、公共交通機関は、「公共交通機関」(public transport) つまりパブリックであると認められています。そして、公共交通機関がパブリックであるとは、これが何よりもまず「社会全体が共有するもの」であることを意味すると考えるのが自然です。

 私たちは誰でも、どこかに移動する必要や欲求を持っています。そして、誰が考えても明らかなように、どこかに移動するのに必要なコストは、少なければ少ないほどよいはずです。

 ただ、移動手段のすべてを私有することができる者はいません。途方もない資産は、すべてのタイプの「乗り物」を所有することが可能にするかも知れません。それでも、すべての道路や河川を私有することはできないでしょう。自由な移動を実現するためには、最終的には、社会が共有する資源に頼るほかはないのです。公共交通機関が公共のものであるというのは、これが社会の共有財産であり、万人がこれに自由に公平にアクセスすることが許されているからであることになります。

 しかし、私たちの移動のために社会が提供するリソース(「輸送資源」)は有限です。公共交通機関が社会の共有財産であるかぎり、当然、「移動のためにこれに自由に公平にアクセスする権利」は、「必要に応じて譲り合う義務」と一体をなしています。

 混雑した電車やバスに乗車するとき、各人が占有することができるのは原則として1人分のスペースです。ひどく混雑した電車に大荷物を抱えて乗車するため、すでに乗車している別の乗客を無理やり下車させたり、空いた座席に荷物を置き、他の乗客の着席を妨げたりしてはなりません。このルールを承認しない人はいないはずです。そして、万人がこれに同意するのは、輸送のためのリソースが有限であるという暗黙の了解がその都度あらかじめ共有されているからです。

関連する投稿

コメントをお願いします。