他人に共感するとは、相手の身になることであり、相手の身になるためには、想像力を欠かすことができません。
この場合の「共感」は、”sympathy”の訳語ではなく、”empathy”の訳語です。“empathy”は、アメリカを中心とする英語圏において頻繁に使われるようになった言葉であり、この言葉が指し示す能力は、最近では、社会生活における必須の能力の1つとみなされているようです。
ところで、ウィキペディアの日本語版には、共感について、次のような具体例が掲げられています。
例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F
たしかに、あらゆる場面において他人と感情を共有することができるのなら、このかぎりにおいて、この場合の「自分」にはempathyが具わっていると言えないことはないかも知れません。しかし、このようなことは事実上不可能でしょう。
また、感情の共有の範囲が友人に限られるのなら、これは”empathy”と呼ぶのにはふさわしくありません。むしろ、この場合の感情の動きは、”symparthy”と表現する方が適切であるように思われます。
empathyの実質は、他人と無差別に感情を共有するなどという、超能力のようなものではありません。また、誰かがつらい思いをしている場に居合わせないと発揮されないような特殊な能力でもありません。
ごく簡潔に表現するなら、empathyおよび”empathy”の訳語としての名詞「共感」が指し示すものとは、「その都度相手の身になって考えてみることができる能力と、そのような態度」以上のものではないと考えて差し支えないでしょう。
とはいえ、「相手の身になる」ことは、現実には必ずしも容易ではありません。
ソーシャルワーク、特に恥や傷つきやすさに関する研究で有名なブレネ・ブラウンは、次の動画において、””Empathy is feeling with people.”と簡潔に語っています(50秒あたり)が、前後の説明からわかるように、この場合のfeelingとは、相手の心の中の感情を丸ごと飲み込むことなどではなく、ただ、相手の身になってみること、そして、相手がつらい状況のもとで身動きがとれないことがわかったら、その原因が相手にあり、自業自得であるように見えるとしても、ともかくも相手に寄り添うことなのです。
なお、この動画でブラウンが言及しているテリーザ・ワイズマンによる共感の4つの特性は、次のようなもののようです。
1. 他人が見ているように世界を見ることができること(to be able to see the world as others see it)
2. 相手について判断を下さないでいること(to be non-judgmental)
3. 相手が個人的に感じていることを理解すること、そして(to understand another’s person’s feelings, and)
4. その相手が感じていることを自分が理解していると伝えること(to communicate the understanding of that person’s feelings)
https://www.habitsforwellbeing.com/the-four-attributes-of-empathy/
相手の身になることは、社会生活のあらゆる場面において常時必要となる態度です。私にはただちに理解することも同意することもできないような他人の言動が私の注意を惹くとき、私が正義と信じる基準にもとづいてこれを即座に否定したり攻撃したりするのは好ましいことではありません。
私が最初にすべきことは、(1)相手もまた、少なくとも私と同じ程度には合理的な判断の能力を具えていること、(2)私にとって好ましくないと思われる言動には、やむをえない事情が必ずあること、これら2点を想定することであり、その上で、可能なら、(3)相手の事情を想像したり、相手の話に耳を傾けたりしてみることです。共感(empathy) は、このような操作の延長上に自然に姿を現す態度であると言うことができます。
共感をこのように理解するなら、私たちの日常生活における対人関係の基礎に共感を認めることが可能になります。また、民主主義の本質が合意形成にあるかぎり、日常生活において発揮されるべき共感にもとづくコミュニケーションの自然な拡張として理解し評価することもまた可能となるでしょう。