Home 世間話 多数者の専制について
UnsplashのThe New York Public Libraryが撮影した写真

多数者の専制について

by 清水真木

田舎者の声

 先月の下旬に実施された総選挙において、国民民主党は、「手取りを増やす」政策を掲げて議席を大幅に増やしました。「手取りを増やす」ために国民民主党が提案した具体的な施策は多岐にわたりますが、これらのうちもっとも目立つのは、基礎控除と給与所得控除の大幅な引き上げでしょう。たしかに、国民が納める税金を補助金として再配分する代わりに直に減税するというのは、非常に公平で簡単な措置であるに違いありません。私は、この政策には大賛成であり、これが実現することを強く願っています。

 国民民主党のこの政策を支持する有権者が多かったのには、複数の原因があるに違いありません。ただ、政府や自治体による所得の再配分が決して公正ではないという認識がその原因の1つであることは確実であるように思われます。

 たとえば私自身は、2020年の「特別定額給付金」10万円を除き、給付金の類を受け取ったことがありません。また、「配偶者控除」「扶養控除」「特定扶養控除」なども適用されません。もちろん、これらの控除や給付金や手当や補助金は、該当する世帯にとり、所得税の割引を意味します。しかし、見方を更めるなら、これらの割引を一切受けてこなかった世帯は、割り増しされた税金を徴収されてきたことになります。

 このような割り増しは、不公正な「独身税」と見なされ否定的に評価される場合が少なくありません。実際、財務省の関係者は、この割り増しが事実上の「独身税」に当たるという意味の発言を残しています。

 基礎控除と給与所得控除を一律引き上げることは、わが国の経済全体に与えるはずの種々の好ましい影響の他に、家族構成によって税負担が異なるものとなるような一種の「不公正」を是正することにもなる、私はこのように期待しています。

金持ちを引きずり下ろすこと

 また、あらゆる控除から閉め出された独身者ばかりではなく、高所得者もまた、なぜか日本では冷たく扱われることが少なくありません。実際、国民民主党が提案する基礎控除と給与所得控除の引き上げについて、多くの人々が、「貧乏人よりも金持ちに減税効果が大きい」などという理由で反対しています。

 高所得者に有利な政策であるという理由により控除の一律の引き上げに反対しているという事実は、これらの人々がみずからに低所得層の位置を与えていることを物語っているのでしょう。しかし、第1に、減税の恩恵を受けるのは私たち一人ひとりであり、したがって、考慮すべきは、自分自身の利益です。他人の懐具合に口出しするなど、余計なお世話にすぎません。そもそも、高所得者というのは、社会の中では圧倒的な少数派であり、かつ――若干の例外はあるものの――所得が多いからと言って、政治的な意思決定に影響を与えるような立場に身を置いているわけではありません。

 また、第2に、現在のわが国の累進課税のもとでは、所得が増えるほど所得税の税率が上がります。したがって、金持ちが納める所得税は、貧乏人よりもはるかに高額です。高所得者にとって減税効果が大きいというのは、当然のことであり、減税が実施されるとしても、貧乏人以上に金持ちが「得する」わけではないのです。これは、他人に対する妬みの裏返しに他ならず、「田舎者」に典型的な卑しい発想と行動に当たると言うことができます。

 ところで、政府は、年間の所得が3.3億円を越える高所得者に対する特別な課税を検討しています。一般に、所得の総額が大きくなるほど、所得に占める金融所得の割合が大きくなります。ところが、金融所得に対する税率は、金額にかかわらず一律です。そのせいで、所得がおよそ1億円を越えると、税負担率が下がるようです。これを問題と受け止め、この問題を解消するために、高所得者に課せられる所得税を少し割り増しするのが金融所得に対する新たな課税の趣旨であると考えられています。このような課税が妥当であるのかどうか、税制の専門的な知識を持たない私には評価する資格はありませんが、それでも、ごく素朴な常識に従うなら、所得に課税することは、それ自体としては必ずしも不公正ではありません。

 ただ、これが「金持ちを引きずり下ろす」ことを目的とする課税であり、身も蓋もない「ガス抜き」の意味合いしかないのであるなら、そのような措置は、むしろ社会にとって有害であり、決して導入されてはならないと私は考えています。

 「金持ちに対しては何をやってもかまわない」などとうそぶくこと、そして、田舎者のガス抜きを主な目的として金持ちに懲罰的に課税することが許されるようになるなら、それほど遠くない将来において、日本は、「全員が平等に貧乏」な社会、いや、全員が平等に貧乏であるばかりではなく、多様性を欠いた停滞した社会となることを避けられません。さらに、ロシア、中華人民共和国、北朝鮮などに似た抑圧的で権威主義的な社会が出現する可能性すらゼロではないという気がしています。

 先月の総選挙において、国民民主党の躍進と併せて私の注意を惹いたのは、(共産党以上に)現実離れした極端な主張を掲げる(左右の)少数政党の勢力の拡大です。国民全体の利益を代弁しているとは到底思えぬ政党が多くの票を集めたことは、現在のわが国において、自由や正義など、民主主義の市民社会を支える諸価値の腐蝕が音もなく進行しつつあることを物語る事実であるように私には思われました。

 また、今回の選挙の結果は、田舎者の妬みによって支えられ、(国民の声に耳を傾けるふりをしながら、現実には国民を愚弄する政治家によって先導される)民主主義的な手続きをことごとく無視した野蛮な「多数者の専制」(tyranny of the majority) の暗い予兆1 として受け取ることができないわけではないかも知れません。数十年後から振り返るとき、2024年が日本の民主主義の黄昏のとば口として記憶に残る年とならないことをひそかに願っています。

  1. 私は、「多数者の専制」という言葉を見るたびに、2000年代前半の「小泉劇場」を想起します。少なくとも私にとっては、あれは、政治的な悪夢以外の何ものでもありませんでした。悪夢という点では、2009年に始まる民主党政権と同じです。 []

関連する投稿

1 comment

いずみ 2024年11月3日 - 9:13 AM

はじめまして。少し前から折に触れてブログを読ませていただいている者です。いつも興味深く拝読しています。

今回、こちらの記事を読んで少し釈然としない部分、論理的に引っかかる部分があり、コメントさせていただきました。

私が記事を誤読し、論旨を誤解している可能性もあり、その点でご不快にさせることがあれば申し訳ありません。当コメントへの反論や、記事本文の内容についての補足説明等がもしあれば大歓迎です。

さて、私が指摘したいのは以下の二点です。

1.記事の前半と後半で、社会全体における税負担の分かち合いについて、相矛盾する論理を採用してしまっている(ように見える)

2.「金持ち」と「田舎者」の定義、および対立関係の成り立ちが(この記事だけを読む限り)不明瞭である

2についてはそれほど語ることが無いので割愛します。

1について順を追って説明します。

結論から言うと、記事の前半と後半で、それぞれの主張の根拠となる命題が相矛盾してしまっているように感じました。

(便宜上、「田舎者の声」という表題から「……期待しています。」までの一連の文章を“前半”、「金持ちを引きずり下ろすこと」という表題から記事末尾までを“後半”と呼ばせていただきます。)

前半の文章の論理のつながりは次のようなものだと私は理解しました。

①政府や自治体による税制を通した所得の再配分制度は、現状、独身者に比べ、配偶者や子のいる世帯に手厚い保障を行っている

②上記①のような現状は不公正である

③国民民主党による、基礎控除と給与所得控除の引き上げ施策は、①②に述べた不公正を是正するものであり、歓迎だ

一方で、後半の文章の論理のつながりは次のようなものだと理解しました。

①減税の恩恵を受けるのは私たち一人ひとりであり、金持ちがより大きな金額の減税効果を受けるからといって、貧乏人が損をするわけではない

②所得税制は累進課税体制であるから、元々金持ちの方が貧乏人よりも大きな税負担を負っており、減税施策のインパクトが金額として大きいのは当然である

↓(※この②はこれ自体論旨がやや曖昧なので、以下のように読み直させていただきます。)

②a 元々金持ちの方が貧乏人よりも大きな税負担を負っている

②b 所得税制は累進課税体制であるから、金持ちにとって、より減税施策のインパクトが金額として大きいのは当然である

③「貧乏人よりも金持ちにとって減税効果が大きいので、貧乏人にとって、国民民主党の施策は歓迎できるものではない」という主張は、したがって①と②aと②bに述べた三つの点で誤っている。

このように整理すると

前半①、前半②、前半③、後半①、後半②a、後半②b、後半③

という7つの命題を見出すことができます。

さて、これらのどこに矛盾があるのか。

問題は次の二点に集約されます。

X.前半②における「前半①は不公正」という評価は、「誰かが負担しなかった税金は別の誰かが負担せねばならない、すなわち社会全体のパイの総量は一定である」という前提に依存している。(言い換えるならば、プライマリーバランスがプラスマイナスゼロであるという前提に立っている)

Y.(Xに加えてさらに、)前半②における「前半①は不公正」という評価は、価値判断(配偶者や子のいる世帯は、独身者世帯より優遇されてはならない、という価値判断)を含んでいる

まず、Xは後半①に矛盾します。

仮に国民民主党の施策によって、(施策の実施前と比べて、)貧乏人甲氏が10万円、金持ち乙氏が20万円の減税を受けるとします。

ここでプライマリーバランスがプラスマイナスゼロであるとすると、

(i)税収が30万円減ることによって、行政サービスの総量が30万円分劣化する
(ii)行政サービスの総量は変化せず、社会全体の物価の変化によって、税制の変更が吸収される

の二通りが考えられますが、いずれにせよ、減税施策の実施前後では、金持ち乙氏の方が、貧乏人甲氏より10万円多く手にしている、という結果が残ることになります。*

(*厳密には金持ち乙氏が社会において無視できないほど強大な割合の富を独占している場合、パターン(ii)において損得が逆転する可能性はありますが、非常識的な状況なので無視します。)

これは本質的に、前半①における、優遇を受けた「配偶者や子のいる世帯」と優遇を受けない「単身者世帯」の対比と変わりません。

仮に「他人の懐具合に口出しするなど、余計なお世話にすぎ」ないとするなら、優遇を受けた「配偶者や子のいる世帯」に対して、「自分より得をしている」とか「彼らが税金を払わなかった分、私が負担している」などと嫉妬するいわれもないことになります。が、それはプライマリーバランスがプラスマイナスゼロではない世界、つまりパイの総量が増えたり減ったり、あるいは(国債などで)未来にツケを先延ばしにしたりできる世界であることを意味します。しかし、清水様は、前半②においてそのような前提を棄却してしまっているのです。

さらに問題があります。先述したYの、前半②が価値判断を含んでしまっているという問題です。

清水様は後半で次のように述べています。

「ごく素朴な常識に従うなら、所得に課税することは、それ自体としては必ずしも不公正ではありません」

私はこの文につき、文脈から「(累進性を持つ所得税制が)必ずしも不公正ではない」という含意を持つと判断しました。

(解釈が間違っていたらすみません)

これはごく常識的な判断ですが、なぜ常識的なのかといえば、「所得の再分配(金持ちが貧乏人を助けること)は制度としてあってよい」という合意が社会全体でおおむね取れているからです。

そして、これは社会全体の目指す姿として、機会の不平等が排されているだけでなく、結果の不平等をもある程度是正することが望ましい、という合意があることをも意味します。

同様に、社会の持続や再生産のため、あるいは単に助け合いとして「子供に投資する」「子育てしている親を支援するため独身者に負担を強いる」ことも、それなりに合意の取れた考え方だと言えると思います。

配偶者や子のいる世帯を相対的に優遇することは、(単に数値的に、人によって負担量が違うという意味で)“不公平”ではあるかもしれませんが、“不公正”といえるかは、個人の価値観によるところが大きいと思います。

前半②のような価値判断が許されるのであれば、後半②bの反対に当たるような主張、つまり「今回行う減税施策によって得をする金額が金持ちの方が多い、というのは、施策の趣旨に照らして問題であり、そのような負の累進性を持たない減税手法を採るべきだ」という主張も価値判断として許されると思います。(実際、今まさに述べたような価値判断から、負の累進性を持たない減税手法として“負の所得税”というものが経済学者によって提唱されています。)

・後半の文章中で「ごく素朴な常識に従うなら、所得に課税することは、それ自体としては必ずしも不公正ではありません」と述べていらっしゃること

・後半②bにおいて「金持ちにとって、より減税施策のインパクトが金額として大きいのは当然」とされていること

これらに関し、“常識”や“当然”という観念で論じられている一方で、前半②で、前半①を不公正と決めてかかってしまっておられるのは、ダブルスタンダードではないかと感じた次第です。

以上です。長々と失礼しました。

Reply

コメントをお願いします。