若いころには思いもよらなかったこと、しかし、ある程度以上年齢を重ねてわかってきたことはたくさんあります。その中で、最近数年のあいだに強く実感するようになったのが、「記憶のよすがのはかなさ」です。
若いころ、私は、人生における記憶のよすがになる建物は、いつまでもその姿をとどめると思い込んでいました。繰り返し通った喫茶店、本屋、商業施設、馴染みの街の風景の物理的な構成要素となってきた特徴的な建築物・・・・・・。しかし、このようなものはすべて、時間の経過とともに少しずつ姿を消して行きました。今はまだ使われている建物も、取り壊される運命を免れることはないでしょう。
最近、私の職場の近くにある三省堂の神田本店が閉店しました。私は、これをとても寂しく感じています。
もっとも、今回の閉店は、建て替え工事のためのものです。何年かののちには、新しい三省堂が同じ場所に姿を現すのでしょう。
しかし、三省堂のビルは、老朽化したとはいっても、完成から40年程度にすぎませんでした。鉄骨鉄筋コンクリート造の建築物の耐用年数(60年)に届くにはまだ相当な時間があったのではないか、もうしばらくのあいだ今のままでもよかったのではないか、などと、建て替えのニュースを聞いたときから、私にはどうにもならないことをくよくよと考えていました。
私が三省堂の建て替えにここまでこだわるのは、次のような事情があるからです。
私が神保町の街に初めて足を踏み入れたのは、小学校5年生の終わりごろ、1979(昭和54)年の春の初めです。このとき、私は、三省堂の本店を訪れています1 が、その本店は、今回取り壊される建物ではなく、さらにその前の店でした。私は、この(当時の私には微妙に殺風景に見えた)本店で、多色ボールペンを購入したことを今でも憶えています。(同じ年の夏に起こった本店の取り壊し工事中の火事のことも、ニュースで見ました。)
そして、1981(昭和56)年、中学2年生のとき、新しい本店が竣工します。中学校から徒歩圏内にあった三省堂には、当時から現在まで、頻繁に足を運びました。取り壊されることになった本店は、私の13歳から54歳までの40年間の人生とわかちがたく結びついている「記憶の宮殿」のようなものであると言うことができます。
小学生の私が初めて歩いた神保町のすずらん通りの街並みを形作っていた建築物のうち、今でもその姿をとどめているのは全体の半分以下でしょう。それほど遠くない将来、神田ばかりではなく、東京の街はいずれも、思い出のよすがとなるものをすべて洗い落とした「よそよそしい」空間に生まれ変わっているに違いありません。
生活圏を大きく変えることなく暮らすとき、私たちは、このような漂白された街のよそよそしさに耐えなければならないのでしょう。
- 同時に、東京堂書店の旧本店と、今はない冨山房書店にも立ち寄りました。また、すずらん通りに今でもある揚子江菜館——ただし、古い建物——で昼食をとりました。 [↩]