21世前半の現在、文字を記すとき、ペン(あるいはこれと同等の筆記具)と紙を用いる代わりに、パソコンやスマホに代表されるデジタル機器を使用する機会が少なくありません。むしろ、(筆記具とデジタル機器が場面や用途によって使い分けられることがあるとしても、)多くの人々の「思想の出力」の大半は、デジタル的なデータの姿を与えられているはずです。
私は、他人の目に触れる可能性が少しでもある文章を書くとき、あるいは、他人の目に触れる文書の直接の準備に当たる作業において文字を記すときには、デジタル機器によるのを原則としています。また、事務的な文書もすべて、パソコン上で作成し、処理します。(私は、フリック入力をきわめて苦手としており、デジタル機器を用いた文字の入力は、その99%以上がパソコンによるものです。)
また、私は、スケジュール管理のための紙の手帳を原則として持たないことにしているため、スケジュールはすべてウェブ上でデジタル的に管理しています。(と言うほどのスケジュールも私にはないのですが。)
ただ、それとともに、私は、毎日それなりの量の手書きを紙に記しています。本を読むときのメモ、思いついたことを書き留めるメモ、買い物のメモなどは、原則としてすべて手書きです。
これらの用途にデジタル機器を使用することができないわけではなく、実際、ごく短期間、パソコンを使ってメモをとっていたこともあります。しかし、今は、アナログへと戻っています。理由は、手書きしないと内容を忘れてしまうからです。いや、内容を忘れてしまうばかりではなく、メモをとったことをそれ自体として忘れてしまうことすらあるのです。
現代の日本人の多くが思想や情報の「出力」という作業に対し「デジタル機器への文字の入力」の形式を与えているとするなら、その大きな理由の1つは、出力のスピードでしょう。つまり、私たちが、パソコンやスマホを多用するのは、その方が、手書きよりも速く、かつ、美しく出力することができるからでしょう。けれども、パソコンによる入力は、本を読みながら作るメモ、思いついたことを書き留めるメモなど、言葉のもっとも狭い意味における「知的生産」の前提であり成果ともなるようなタイプの文字には向かないように思われます。速すぎるからです。
筆記具により1文字ずつ紙に記すのには、当然、ある程度の時間がかかります。しかし、(特別に汚い殴り書きでないかぎり、)文字を書くのに費やされる時間は、同時に、「思想」(=考えられたこと)を整理する時間でもあります。手書きの場合、私たちは、自分がこれから紙に記そうとしている「思想」を頭の中で反芻し、最適の言葉を探しながら、そして、すでに紙に記された文字を確かめながら書き進めます。これにより、デジタル的な「入力」よりも時間がかかる分、明晰判明な表現を与えることが可能となるのです。(後篇に続く)