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教壇論

by 清水真木

 私は、大学の教師です。「大学」と名のつくところで最初に授業を正式に担当したのは1995(平成7)年4月であり、これ以来、現在まで、途切れることなく教室に通って授業し続けてきました。

 ところで、私は、「教鞭をとる」「教壇に立つ」などの言葉には多少の違和感を覚えます。というのも、私には、「教鞭」なるものを手にして授業した経験がなく、また、これまで使ってきた教室の中には、「教壇」がないものが少なくないからです。

 とはいえ、教壇の有無は、教室のサイズや形状との関係のみで自動的に決められているわけではありません。
 実際、私が勤務する明治大学の場合、同じくらいの定員の教室でも、キャンパスにより、建物により、教壇があったりなかったりします。それどころか、定員が100人を超える教室に教壇がなく、しかし、定員が40人の教室には教壇がある場合もあります。

 ただ、これは明治大学に固有の事態というわけではなく、むしろ、教育関連のすべての施設が同じ規格で一挙に作られたのでないかぎり、このような不統一は、どのような大学に認められるはずです。

 ただ、ときには、教壇がないと都合が悪い形状の教室に教壇がなかったり、教壇がなくてもかまわないサイズの教室の前面を巨大な教壇が覆っていたりして、授業に困難を感じることがあります。

 一方において、教壇のない大教室、特に階段教室では、教師の側は、谷底のような位置から授業することを余儀なくされます。教師がよほどの長身でないかぎり、教室全体を見渡すことは困難であり、少なくとも教師にとっては、これが快適な環境ではないことは確かです。

 とはいえ、他方において、あまりにも高い教壇というのもまた、具合がよくありません。昔、ある大学で非常勤講師として授業したとき、割り当てられた教室の教壇があまりにも高く、困惑したことがあります。定員100人程度の教室であるにもかかわらず、教壇の高さが1メートル以上あり、学生が着席すると、教壇の床面が学生の頭よりも上に来てしまうのです。この高さの場合、教壇に上って見渡すと、もはや学生の頭しか見えませんし、天井が近すぎて、圧迫感を覚えます。当然、黒板も高い位置にありますから、学生は、板書を確認するとき、相当な角度で顔を上げなければならなくなります。

 私が使ったその教室では、教壇の両脇の天井からテレビのモニターが吊り下げられていたのですが、モニターがちょうど私の顔と同じ高さにあり、授業中、私は何回かこれに頭をぶつけたのを覚えています。

 教室のサイズに見合う適切な高さの教壇は、授業する側にとっても、授業を聴く側にとっても必要であると言うことができます。

 なお、大学における教壇の有無には、教室のサイズや形状、建物が設計されたときの事情などの他に、教師と学生の関係をめぐる各大学の立場が反映される場合があります。すなわち、大学の中には、「非民主的」であるという理由で——授業以外の目的で使用する可能性がある教室を除き——教室のサイズには関係なく、教壇を原則として置かないところがあるのです。ただ、幸いなことに、私が知るかぎり、このような大学は多数派ではありません1 。また、教室に教壇を設置しない大学がその体制に関しても民主的であるとはかぎりません。

 教壇というのは、少なくとも、どの大学にもある目立たない什器の1つです。教室のサイズ、窓の大きさ、天井高などは、具体的な基準が法律によって定められているのに対し、教壇の設置を規定する法律はありません。したがって、その有無やサイズは、大学のキャンパスや建物の成り立ち、あるいは、大学を支配するイデオロギーなどを反映するものであり、この意味において、注意を向けるに値するものであると言うことができないわけではないように思われます。

  1. 私自身は、この意味における「教壇ゼロ」の大学を1つしか知りません。また、それもずいぶん昔の話ですから、現在の状況はわかりません。 []

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