Home 世間話 教養としての「教養としての」について(前篇)

教養としての「教養としての」について(前篇)

by 清水真木

 最近、「教養としての」という目障りな6文字をタイトルに含む書物を見かけることが少なくありません。この問題は、次の文章で簡単に取り上げたことがあります。

 「教養」は、いくつもの異なる場面において異なる意味に用いられる言葉です。そして、書物(の内容)の性格を表現するために用いられる場合、この二字熟語は、「実用」および「娯楽」の反対語の位置を与えられます。つまり、もともと、「教養としてのX」という形で用いられる「教養としての」とは、「X」という名の情報または知のうちには、役に立つ(=実用)かどうか、面白い(=娯楽)かどうかとは関係なく、つまり、身につけることが無条件に有意義であるようなものが含まれていることを表示する修飾表現であったことになります。

 無条件に有意義とは、「誰にとっても、どのような状況においても知らなくてもかまわないことはありえない」ことを意味します。つまり、無条件に有意義なものとは、人間としての成長、人格の陶冶に寄与するものなのです。

 この意味における「教養としての」は、もともと、実用と娯楽の両者から距離をとり、人間として「よく生きる」ことを目指すもののためのものであることを告げるために「X」に加えられた表現であったことになります。

 ところが、この「教養としての」という表現は、現在では、人間としての成長とも人格の陶冶とも「よく生きる」こととも無関係な、歪んだ意味を与えられて流通しています。「教養としての」および教養は、底の浅いもの、いや、言葉の本来の意味における「教養」と完全に対立する何ものかを表す言葉に成り下がっているように見えるのです。

 私の理解では、「教養としての」の堕落は、2つの段階に分かたれます。

 (1) まず、人間性との関係が背景に退き、この6文字の意味は、「さしあたり何の役に立つのかはわからないが、誰でも身につけていた方がよい知識や技術」へと変質します。教養」は、内容の点でも対象とする社会階層の点でも「幅広い」もの、つまり「百科事典的」になることを求められるようになります。

 もともとの「教養としての」は、「万人のためのもの」であることを必ずしも意味しませんでした。教養を身につけることは、自分に対する一種の挑戦であり、教養(=形成)には、絶えざる自己克服との契機が認められました。実用と娯楽に対立するものとしての教養は、決して万人向けのものではなく、われらがニーチェの指摘を俟つまでもなく、「普遍的教養」なる表現は、形容矛盾以外の何ものでもないのです。(後篇に続く)

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