※この文章は、「文字と書物の優位について(前篇)」の続きです。
また、「編集」という作業に関しても、文字情報の方がはるかにすぐれています。文字情報にもまた、編集という作業がないことはありませんが、動画の「編集」とは異なり、編集は、文字が表現する内容との関係のみにおいて試みられるものであり、視覚に訴えるための工夫は原則として不要です。
さらに、検索したり見返したりするのにすぐれているのもまた、文字の方であることは明らかです。
YouTubeに代表される配信サイトアップロードされた動画がネット上のトラフィックの大半を占有していると言われています。また、動画は、文字よりもはるかに多くの量の「情報」を運ぶと言われており、これからは動画の時代である、などと語られることすらあります。しかし、厳密に考えるなら、動画が多くを運ぶのは、情報ではなくデータです。同じ情報を伝えるのに必要なデータの容量が文字とくらべてはるかに大きいせいで、トラフィックの大半を占有しているにすぎないのです。教養書に分類される文字のみの書物と、同じ内容を説明する動画を比較するなら、文字のみによる書物の方が「データ」は小さく、かつ、単位時間あたりに伝える「情報」は多いことがわかります。
文字よりも映像の方がすぐれている点は、もちろん、いくつもあります。内容によっては、映像の方がわかりやすかったり、印象に残りやすかったりすることはあるでしょう。しかし、それでも、映像は、文字を読み、情報を獲得したり、経験を拡張したりする作業を超えることはありません。
この意味において、(何が書かれているのかわかるというレベルを超える)文字によって記されたものを「読む」能力としてのリテラシーの意義は、将来においても失われることはないでしょう。いや、これは、決して失われてはならないものであるように思われるのです。