ソクラテスは、対話において、つねに相手と同じ一つの空間を共有していました。身体を持つ相手を目の前に置き、基本的に声のみを用いて意見を戦わせることがソクラテスにおける対話の物理的な形式です。私の目の前にいる相手に意見を伝え、これを聞いた相手がこれに同意したり反対したりするとともに、その理由を私に説明する・・・・・・、ソクラテスの対話は、知的な対話の原型であると考えることができます。
しかし、現実の知的対話がこのような物理的な条件を満たすことは滅多にありません。専門を同じくする研究者たちなら、学会で顔を合わせることはあるかも知れませんが、これは例外であり、むしろ、大抵の場合、その対話は、何らかの意味において仮想的なものとならざるをえません。
たとえば、私が何らかの手段で文章を公表し、誰かが文字を用いてこれに応答するなら、ここには公共の言論空間が成立したと考えることができます。実際、古代から現代まで、意味のある知的な対話のうち、記録に残るものはすべて、この仮想的な空間の内部において遂行されてきました1 。(物理的な空間における対話の多くは、その場に身を置くことでしか与ることができないものとして、記録されることなく忘れられて行きます。)
もっとも、みずからの思想を言葉で表現するときには、私は、その都度あらかじめ——対話を成立させるつもりがあるのなら——これから公表する予定の内容を他人の目で点検するはずです。目の前にいる誰かに語りかけるときでも、仮想的な言論空間へと文章を送り出すときと同じように、対話というものは、他人のまなざしを内在化させることによって初めて成り立つのです。
両者のあいだに違いがあるとするなら、それは、次の点に認めることができます。すなわち、対話相手と同じ空間を共有しているとき、私が反応を予想しなければならないのは、目の前にいる相手だけです。これに対し、文章を公表するときには、不特定多数の読み手の反論を予想することが必要となるのです。
そして、対話には、他人のまなざしの予期が必須であるなら、対話が成立するために欠かすことができない要素は、目の前にいる物理的な他人や、仮想的な言論空間において想定される相手の存在ではありません。言葉の交換ですらありません。必要なのは、「みずからのうちなる他人」であり、この「みずからのうちなる他人」との対話こそ、対話に必要な最低限の要素であることになります。
また、対話の本質が自己との対話である2 なら、言葉を用いて自己を表現する試みはすべて、自分を相手とする「シャドーボクシング」と見なされなければなりません。目の前にいる他人が私の語りかけに反応しないとしても、あるいは、私が公表した文章が言論空間の内部において何の反響にも出会わないとしても、何かを表現することができないわけではありません。
もちろん、いかなる他人にも出会うことなく言葉を連ねることには限界があります。「みずからのうちなる他人」のまなざしは、それ自体としてたえず更新されることが必要となりますが、この更新には、何らかの意味における——現実的でも、仮想的でも——他人に出会うことが絶対に必要だからです。
他人との対話が物理的に成立するためには自己と対話することが必要であり、しかし、自己との対話は、他人の物理的な介在をよすがとして初めて可能となるものです。この相互作用が途切れるとき、私たちは、完全な沈黙と思考の停止へと落ちて行くことになるに違いありません。
- 対話と文章の中間に、「私信」による対話があり、19世紀以降に「往復書簡」の形式で試みられた対話がこれに当たります。 [↩]
- だから、自己との対話は、モノローグとは決定的に異なります。私がひとりごとをつぶやくことがあるとするなら、私の口から出るのは、私の言葉であるというよりも、むしろ、私のうちなる他人が発するはずの言葉であると考えるのが自然です。 [↩]