現代の日本において、大学という装置は、知識の根本的な性格に関するある特徴的な認識を前提としています。そして、知識をめぐるこの認識は、民主主義を支える暗黙の了解として、近代の市民社会において暗黙のうちに共有されてきたものです。しかし、不思議なことに、21世紀前半の現在、大学と民主主義の前提をなすはずのこの暗黙の共通了解が、なし崩し的に失われつつあります。私は、この状況に懸念を抱いていますが、それとともに、この変化を押しとどめることは、もはや不可能であり、あらゆる抵抗が今や手遅れであるような気もしています。
ところで、大学生は、授業料を事前に納めることにより、大学のリソース(授業、図書館、設備など)を活用して勉強する権利を手に入れます。大学生は、予備校の生徒とは異なり、どれほど多くの授業に出席しても、これを理由に追加の授業料を請求されることはありません1 が、それは、大学が徴収する授業料というものが、大学が開講するすべての授業に出席する権利の対価だからです。
また、大学に在籍しているかぎり、学生には、授業に出席する権利があるばかりではなく、教師に質問する権利もあります。当然、教師の方は、学生の質問に答える義務を負います。質問は、もちろん無償です2 。
もっとも、「質問する権利」とは言っても、学生が質問できるのは、学問、特に授業の内容や教員の専門分野に何らかの関係があると思われる事柄に限られます。教師の方には、「誕生日はいつですか?」「子どもは何人いるんですか?」「寝坊して試験を受けられなかったので救済措置を講じてください」などの質問や要求に答える義務はありません。
さらに、教師は、どのような状況のもとでも学生への質問に回答しなければならないわけではないでしょう。たとえば、定期試験の最中に、試験場において「正解を教えてください」と学生から求められても、応える義務はないと考えるのが自然です。
学生が質問することができるのは、自分が履修している授業の担当者ばかりではありません。形式的には、自分が在籍する大学に所属するすべての研究者に何でも質問することができます3 。
大学生は、大学生であるかぎりにおいて、大学が与えることができる学術的な知識のすべてに対し、授業料以外の対価を要求されることなく、無償かつ無制限でアクセスする権利を与えられていることになります。(図書館やデータベースの利用を含みます。)そして、研究機関としての大学を支えてきたのは、知識というものが本質的に自由なアクセスを許すもの、いや、自由にアクセスされることを要求するものであるという認識に他なりません。
- 教科書代や材料費などはこのかぎりではありません。 [↩]
- 当然、専門分野に関係する質問を学生から受けた教師が、質問の内容に関係なく一切の回答を拒否したら、大問題になるはずです。 [↩]
- 何となく面白そうな授業を見つけ、しかし、制度上、これを履修することも、これに出席することもできないということは少なくないはずです。しかし、このような場合でも、その授業の担当者を訪ね、読むべき文献を教えてもらったり、その分野の研究の現状を教えてもらったりすることは自由です。 [↩]