私は、日常生活において、「愛」という名詞を滅多に使いません。使い方がわからないからです。私がこの言葉を使うのは、その意味について考えるときだけです。
ところで、よく知られているように、古代ギリシア語には、日本語の「愛」に対応する名詞が3つあります。すなわち、「エロース(eros)」「ピリアー(philia)」「アガペー(agape)」です。
これら3つの名詞がそれぞれ指し示す何らかの「愛」が人格を具えたものを対象とするかぎりにおいて、「エロース」は「恋愛」「愛着」、「ピリアー」は「友愛」「隣人愛」、「アガペー」は「神への愛」などと訳すことが可能です。なお、最後の「アガペー」は、古典期のギリシア語には用例がなく、紀元後になって初めて文献に現れたものであり、かつ、キリスト教の信仰の文脈の内部に限定して使用されてきたと一般に考えられています。
愛の概念、特に人格を具えたものに対する愛1 については、西洋にも日本にも膨大な文献があります。しかし、その内容はまちまちです。上に述べたような3種類の区分が前提であることの他に、共通の見解をそこに見出すことは困難です。愛の理解や評価がまちまちであるという事実からわかるのは、(1)私たちの生活において、自分以外の何者かに——あるいは、何者かから——向けられる愛が途方もなく重要なものであること、しかし、(2)その意味の説明が非常に困難であることにすぎません。
愛の意味の説明が困難であることの原因は1つではありませんが、いくつもある原因のうち、もっとも大きなものの1つは、「愛する」という動詞です。「愛する」という動詞は、愛というものが「対象への何らかの働きかけ」において成立するものであるという思い込みへと私たちを誘います。
愛が対象への何らかの働きかけであるというのが思い込みであるのは、次の事実により明らかです。すなわち、「誰か/何かを愛する」人が実際に遂行しているのは、たとえば「電車の中で老人に席を譲る」「配偶者の誕生日に花束を贈る」「ミニカーを収集する」などであり、「愛する」という言葉によってしか表現することができない何かが行われているわけではありません。「愛する」を他の動詞、たとえば「大切にする」に言い換えても、事情は変わりません。
- 「ピリアー」の場合、その対象は、人格を具えたものには限定されません。”phil-”で始まる英語の名詞、あるいは”-phile”や”-philia”の語尾を持つ英語の名詞を想起するなら、この点は容易に確認することができるでしょう。 [↩]