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許しがたい誤訳について

by 清水真木

 外国語の文章を日本語にあらためるときには、誤訳しないよう注意しなければなりません。これは当然のことです。しかし、これも当然のことながら、誤りのない翻訳が可能となるためには、当の外国語を読む能力が具わっているだけでは十分ではなく、翻訳する者は、もとの文章が言いたいことについてもまた、それなりに理解していなければなりません。

 たとえば、レヴィナスの文章を正確に翻訳——そのようなことが可能であるとして——するためには、当の文章のテーマについてレヴィナスが何を言いそうか、読む前に漠然と予想することができなければならず、そのためには、レヴィナスについてある程度の知識を具えていることが必要となります。予想や知識を欠いたままレヴィナスの文章を機械的に翻訳しようとしても、意味不明な日本語の文章が「出力」されるにすぎないでしょう。

 歴史や文学についてもまた、事情は同じです。しばらく前、西洋の文化史に関係するある大部な書物の翻訳を読みました。いや、厳密には、読み始めました。しかし、読み進めるうちに、人名、地名、書名に代表される固有名詞に関連する誤訳が多いことに気づきました。英語圏以外の人名をそれと気づかずに中途半端な英語風に無理やり表記したと思われる謎の片仮名の文字列、書名や人名などの定訳を無視した固有名詞の翻訳、人名と施設名の取り違え、訳語の不統一など、1ページに平均2箇所くらいの割合で間違いが見つかるのです1

 最初のうち、私は、私自身が違和感を覚える表現を見つけるたびに読み進めるのをやめ、Googleでもとの言葉と思われるものを検索してチェックしていました。しかし、1ページ読むのに30分以上かかるようになったため、結局、50ページくらい読んだところで、本を投げ出しました。ヨーロッパでは、当該の分野の研究として参照される機会が多い著作であることを考慮するなら、この翻訳は、もとの作品にとり、また、日本の読者にとっても、厄災以外の何ものでもないでしょう。

 翻訳に関し、私にとってもっとも許しがたいのは、単純な文法的な誤りではなく、上に述べたようなタイプの誤訳、つまり、固有名詞や事実に関する調査の手間を惜しんだことに由来する誤訳です。訳者は、著者が言及する人物、場所、書物、施設などについて、それが誰であり、どこであり、何であるのか、調べていません。また、それぞれに関する日本における一般的な表記を確認してもいません。知っていると思い込んで調べなかった——文法上の誤訳はこちらに属します——のではなく、知らないことを、知らないと承知していながら——そして、手間さえかければ必ずわかることであるにもかかわらず——調べることなく放置したのです。

 訳者が著作の内容に強い関心を抱いているのなら、「調べろ」などと命令されなくても、わからない固有名詞は、見つけ次第すべて調べ、そして、細部を理解しようとするはずです。調査に関し大規模な手抜きがあったとは、訳者には著作の内容に関心がなかったことを意味します。このような翻訳は、作品および読者にとって厄災であるばかりではありません。これは、何よりもまず、著者にとって失礼であるように私には思われるのです。

  1. 当初、私は、大学の専任教員である訳者が自分の指導する大学院生に翻訳を丸投げしたのではないかと疑いました。しかし、「訳者あとがき」に記された協力者の中には、大学院生と思われる名前は含まれていませんでした。 []

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