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高等学校無用論(後篇)

by 清水真木

※この文章は、「高等学校無用論(前篇)」の続きです。

 しかし、大学入学資格検定の後身として2005年に始まった高等学校卒業程度認定試験(高認)の受験科目数は、高等学校に一度も通わない者でも最大10科目にすぎません。(科目を上手に選択するなら、8科目の受験で合格することができます。)しかし、高認が大検と決定的に異なるのは、現在の高認が全日制普通科の高等学校に在学している生徒にも受験資格を与える点です。

 大検の場合、全日制普通科に在学している生徒が受験資格を得るためには、試験日までに高等学校を退学しなければなりませんでした。「高校に通う」ことと「大検を受ける」ことは両立せず、両者はentweder/oderの関係にあったのです。

 これに対し、現在の高認のもとでは、高等学校の普通に通いながら受験することが可能です。つまり、合格するまでは高校に通い——受験を免除される科目を増やしながら——高認を受験し、合格した時点で退学してもかまわないのです。

 文部科学省が高認という制度をどのように理解しているのかは知りませんが、少なくともこれまでのところ、制度が変更されるたびに受験科目数が削減され、受験資格が緩和されてきたことは事実です。すでに現在では、時間、体力、金銭など、すべての点において、高等学校に通うよりも高認を受験する方が安上がりであり、高認を受験することにより中等教育の後半の3年間の「中抜き」することは、現実的な選択肢になりつつあるように思われます。

 将来の日本人の学力のみを考慮するなら、高等学校卒業程度の学力を示す標準化された試験が実施されれば十分であり、普通教育を目的とする高等学校は廃止してもかまわないと私は考えます((中学校についてもまた、事情は同じです。標準化されたテストのみが政府の責任で実施されかぎりにおいて、中学校は不要となります。もちろん、中学校が消滅することにより、「いじめ」の問題はおのずと解消します。))。

 ただ、高等学校を廃止した場合、社会が不安定になるはずです。若者は、放っておけば、政治や社会の現状に批判的な態度をとるのが普通です。しかし、高等学校がなくなれば、16歳から18歳までの大量の若者が街頭に姿を現し、現実に対し大規模な異議申し立てが始まるでしょう。

 現在の高等学校に使命があるとするなら、それは、言葉の狭い意味における教育というよりも、むしろ、この年齢の若者たちを収容し、管理教育によって異議申し立てを徹底的に抑え込むことを措いて他にはないように思われます。(大学や大学院にもまた、似たような役割が期待されているはずですが、この問題は別の機会に取り上げます。)高等学校と少年院は、目指すものを共有していることになります。

 たしかに、若者の異議申し立ては、内容の点では見当違いであることが少なくありません。それでも、現状に対する不満を表明することなく、現在の体制の中で上手く立ち回ることしか念頭にない従順な若者ばかりの社会には——どれほど安定した社会であるとしても——明るい未来は決して訪れないように思われるのです。

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