日本で行われている英語の検定試験にはさまざまな種類のものがあります。その中で、大学生以上の受験者がもっとも多いのはTOEICでしょう。私の本務校も、1年生全員にTOEIC-IPテストを受験させています。
このように「受験させられる」場合を除き、TOEICを自発的に受験する人々が英語の学習やTOEICの受験に何を求めているのか、私は知りません。ことによると、これらの人々は、「就職に有利だから」とか「ビジネスに役立つから」とか「使っている人口が多いから」というような理由で英語を勉強しているのかも知れません。しかし、TOEICのスコアを標的として費やされた時間と体力は、無駄であるばかりではなく、むしろ、有害ですらあるように思われます。
そもそも、外国語は、その言語が使用されている地域の文化に興味(と当然のことながらある程度の敬意)を持っている者が、これをよりよく知るための手段に他なりません。ここで「興味」というのは、映画、音楽、文学、料理、自然などに惹かれること、つまり、自分の「経験」を拡張してくれることへの期待を意味します。
したがって、英語圏の文化に特別な興味を抱いていない者にとって、英語の学習は、「就職活動に有利だから」とか「ビジネスに役立つから」とか「使っている人口が多いから」とかいう外的な事情のみによって強制された「罰ゲーム」になります。換言すれば、TOEICに代表される検定試験のスコアを標的とする英語学習は、一種の自傷行為に他なりません。これは、英語圏の文化に対する侮辱であるばかりではなく、そもそも、英語の勉強を長期にわたって自発的に続けることができないはずです。
本来、外国語の学習というのは、膨大な時間と体力を投入する一種の「楽しみ」です。また、わが国には、どこかの国の植民地となり、その宗主国の言語を暴力によって押しつけられ、サバイバルのために宗主国の言語を習得させられたという不幸な経験がありません。この意味において、わが国は、外国語の学習を純粋に楽しむという、世界でも稀有な権利を持つ国であるはずです。
しかし、多くの日本人は、外国語学習をこのような「罰ゲーム」としてしか知りません。英語の学習に「コスパ」が期待されているという事実は、外国語の学習の本来の意義に関する深刻な無知の反映に他なりません。これはきわめて不幸な事態であり、私は、中学校や高等学校で英語を必修としないことが日本人の「語学力」の向上に有効であると信じています。(なお、現在でも、厳密に言えば、中学校と高等学校の英語は法律上は「選択科目」です。)