昨日、私は次のような記事を投稿しました。
上の記事において、私は、地方の国立大学の試験場に現れた受験者の多くが高等学校の制服に身を包んでいたことについて、これを気持ちが悪い光景と表現しました。
以下では、私にとってこの光景が気持ち悪いと感じられた理由を記します。
地方の高等学校には、登校するとき以外にも制服の着用を正当に求めるところが少なくないようです。このようなルールがどのような事情から生まれたのか、その起源はわかりません。
しかし、起源が何であるとしても、高等学校がこのようなルールに何らかの実際的な価値を認め、そして、ルールの遵守を生徒に求めているとするなら、それは、このようなルールが主に生徒の「監視」と「管理」に都合がよいからに違いありません。(※私は、高等学校の「校則」をめぐる事情に通じているわけではなく、事実を誤認している可能性があります。私の勘違いにお気づきの方は、ぜひとも御指摘ください。)
高等学校は、制服姿の生徒が世間の目を気にして好ましくないふるまいを思いとどまることを期待しているのかも知れません。また、校外でも生徒が制服を着用しているなら、生徒が何か好ましくないことを実行に移したとき、これを目撃した人々は、制服を目印にその生徒が在籍する学校を特定し、学校にすぐに通報することができます。校外における制服着用を生徒に求める理由は、学校の側の「生活指導の便宜」に尽きます。
しかし、高等学校が制服に期待しているのが上記のような機能であるとするなら、高等学校は、生徒を可能的な犯罪者として扱っていることになります。なぜなら、学校が制服に期待しているのは、刑務所が受刑者の囚人服に期待しているのと同じ役割だからです。
制服の着用を求めるルールは、生徒を「操作」するためのものでないとしても、少なくとも集団主義とパターナリズムの表現ではあります。そして、生徒をこのように取り扱うことは、みずからが同意しているはずのルールを尊重する気持ちを奪い、いかにしてルールを空洞化させるかを考えるようミスリードする効果しかないと私は考えています*1
大学は本質的に(よくも悪くも)自由な空間です。また、主体的、自主的に自分の将来を切り拓くことが学生に期待される空間でもあります。集団主義やパターナリズムとは根本的に相容れません。
少なくとも、初等中等教育が管理教育に支配されている現在、大学は、管理教育を全面的に否定し、学生がみずからの足で歩くことができるよう、「精神的なリハビリ」からその教育を始めざるをえません。自由を本質とし、集団主義ともパターナリズムとも相容れない空間としての大学の門を叩こうとする者が、その入り口となる入試において高等学校の制服を着用するというのは、悪い冗談以外の何ものでもありません。これが、制服姿の受験者でいっぱいの試験場が気持ち悪いことの理由の1つです。(後篇に続く。)
*1:校則には改廃に関する規定があり、生徒が個別のルールに同意できない場合、しかるべき手続きによって改正が可能になっているのが普通であるはずです。