現代の日本では、労働力人口の大半が会社員によって占められています。私が「会社員」と名づけるのは、民間企業に雇用され、その賃金で生計を立てている者のことです。正社員だけではなく、派遣社員、契約社員、パートタイマー、アルバイトなどもまた、ここに含まれます。
最近、「会社員」という言葉自体を目にする機会が少なくなりましたが、それは、会社員が少なくなったからではもちろんなく、むしろ、現代の日本が、誰もがどこかの「会社」の一員であることを当然と見なす社会となりつつあるからに違いありません。
しかし、私は、「一億総会社員」と名づけることができるこのような状況を大変に気持ち悪く感じます。これは、わが国にとって決して好ましいものではありません。少なくとも、民主主義にとっては間違いなく有害です。会社員的なものが社会を滅ぼすのではないかという私の危惧には、少なくとも2つの理由があります。
平均的な会社員は、俗流マルクス主義風に表現するなら、みずからは生産手段を持たず、生活のために労働力を時間単位で切り売りする賃労働者であり、この意味において「プロレタリアート」です。そして、社会の労働力を担う者の大半がプロレタリアートであり、民間企業に隷属しており、しかも、1日の生活時間の大半をみずからを雇用する企業の指揮のもとで過ごさなければならないということは、会社員というのが民主主義の担い手とはなりえず、ただ社会に寄生するだけの存在とならざるをえないことを意味します。
民主主義というものは、社会全体の利害にかかわる諸問題に関する合意形成の努力なくしては維持することができません。そして、オープンな議論による合意形成には、それなりの修練と多くの時間が必要です。しかし、企業に隷属する会社員がこのような民主主義的な実践の場に身を置く時間を欠いていることは明白であり、したがって、民主主義を支える合意形成のための複雑なスキルを会社員に期待することも困難です。(企業というのは、本質的に封建的な集団であり、会社員が経験的に身につけることができるのは——集団によって程度の差はあるとしても——封建制のもとでの意思決定のスキルだからです。)
平均的な会社員は、賃金の多少に関係なく民主主義の寄生者あるいは観客であり、せいぜいのところ「民主主義のパートタイマー」、(日曜大工ならぬ)「日曜民主主義者」であるにとどまらざるをえないのです。
しかし、会社員の増加が民主主義にとって有害であるのは、会社員が、合意形成のために使うべき時間を、そして、民主主義的な合意形成に参加するための複雑なスキルを獲得する機会を企業に奪われた存在であるからであるばかりではありません。
平均的な会社員は、民間企業の内部において通用してきたものの見方にあまりにも馴染んでいます。そのため、彼ら/彼女らには、自分たちにとって自然なふるまい方が企業の外部では通用しないことに気づくことができません。
現代の日本では、政府や財界(つまり資本家の集団)が支持する政策は、また、左翼政党が掲げる対案も、当然のことのように、社会全体が「透明」な「効率的」なものとなることに対し価値を認めています。現代の日本において政治的な権力に与る者たちの多くは、透明で効率的な統治を理想とする点において一致していると言うことができます。(だから、すべての学校は、企業にとって都合がよい「人材」を吐き出す組織へと強引に作り替えられ、健康保険や公的扶助の制度の意義は、どのくらいの人間を生産と労働の現場へと駆り立てられるかによって測定され評価されるわけです。)
たしかに、利潤の追求が目的であるかぎり、組織の透明性と効率は大切でしょう。しかし、社会というのは、利潤を追求する集団ではありません。まして、効率や透明性など、民主主義の敵以外の何もでもありません。
ところが、企業に隷属し、「民主主義の素人」のまま年齢を重ねてきた会社員は、みずからが慣れ親しんだものの見方が企業の外部でも通用すると勘違いし、権力に盲従することで民主主義を空洞化し解体することに不知不識に加担してしまう危険があるように思われるのです。