私は、大学の教師としては非常に古い——いや、古すぎる——タイプに属しているのかも知れません。講義というものは基本的に口頭で行われるべきものであり、学生が教室においてなすべき最低限のことは、耳を使って私の話を聴いて内容を理解し、必要に応じて内容を書きとめることであるとかたく信じているからです。
そして、この信念を前提とするなら、教室に来て私の板書を機械的にすべてノートに書き写し、かつ、板書を書き写す以外の用途でノートを使わない者は、そもそも授業に出席していることになりません。
板書をすべて機械的に写すことは、小学生にもできる低級な作業です。また、スマホによる撮影が許可されているのなら*1、人間が教室にいることすら必要ではありません。おサルで十分です。(これは、私の授業への出席率が低いことの原因の1つかも知れません。もちろん、おサルが代理で出席しているわけではありません。)
私は、2019年度まで、「授業を受ける=板書を機械的に複製する」という転倒したマインドセットを解体して私の話に耳を傾けさせるため、20年近くにわたり、考えうるあらゆる手段をむなしく試みてきました。(「試験は板書したこと以外から出題する」と警告したことも一度ならずあります。)しかし、残念ながら、成功した試みは1つもなく、今のところ、学生をこの方面で文明化することは諦めています。
学生は、私が板書していないときには、私がどれほど重要なことを話していても、腕を組んだり頬杖をついたりして手持ち無沙汰な様子でただ坐っています。(私が授業中の内職、飲食、スマホの使用を禁止しているため、学生には他にすることがないのです。)重要なことを口頭で伝えるには、「これから重要なことを説明する」とまず宣言し、その後、完全に同じ説明を最低でも3回は大声で繰り返すことが必要になります。学生は、私が同じことを繰り返し絶叫しているのに気づくと、これを「異常事態」と受け止めて手をおもむろにペンに伸ばします。
これは私の完全な想像ですが、現在の中学校や高等学校の授業に「板書の機械的な複製」をよしとするものが多いか、あるいは、少なくとも、中学校や高等学校においてこの作業が推奨されており、学生は、大学に入学しても、この悪しき習慣と縁を切ることができないのかも知れません。(これが「悪しき習慣」であること自体に気づいていない可能性もあります。)
他人の話に耳を傾けてその場で内容を理解すること、必要なら要点を書きとめておくこと、さらに、場合よっては自分の考えをまとめること・・・・・・、このようなことは、大人の社会においてコミュニケーションを維持するために絶対に必要な能力であり、このような能力が身につかないまま卒業しても、ロクな仕事はできないでしょう。
*1:授業内容および板書は教員の著作物であり、教員に無断で板書を撮影すると、著作権法違反に問われる可能性があります。したがって、スマホによる板書の撮影には、つねに「教員の許可」が必要となります。
1 comment
度々のコメント失礼します。
十年以上前に某大学で先生の講義を受けたものです。その節はお世話になりました。
私の場合、例外的に高校時代の恩師から「聞いたことをメモする」意義の理解とその実践を叩き込まれていました。そのおかげで、清水先生の講義がとても面白く、快適だったことを覚えています。(もちろん成績もよかったです)
周りを見渡すと、ノートを取るとは板書を写すことだと思っている学友が確かに多く、そういった人たちは「聞いてメモする力」だけでなく、教科書を読んだり、文章を書いたりする能力も総じて限定されているのでした。学部で学業を修める能力に関して言えば、私と相当の開きがあったことは確かです。
これから社会に出るにあたって、彼らはこんな基本的なことができなくてどうするのだろう? 彼らにまともな仕事ができるのだろうか? 当時私もそう思ったのです。
しかしその後、会社員として社会に出てみて、私の心配は杞憂で、余計なお世話だったと分かりました。
メモを取る力であるとか、概念を紙に書いて構造化する力といったものを、彼らは社会人になって最初の数年間で、大抵の場合業務遂行可能なレベルまでさっさと身に付けてしまうのです。
学力的には目立たない、私立大学の凡庸な文系学生が、数年後には能力を伸ばし、営業や事務のエースとして活躍することが全く珍しくないのが「世間」なのだと思います。