手持ち無沙汰とは異なり、一般に「退屈」と呼ばれる状態ないし気分は、生産性を欠いています。「退屈」とは、普通には、私がなしうること、あるいはなすべきことに対し興味を引かれない状態を意味します。そして、普段の生活において私たちが経験する退屈は、たとえば「退屈な授業をサボってボーリングに行く」(?)という文で使われているようなレベルの退屈です。
習慣的な行動は、私たち一人ひとりの生活の中に、代替不可能な形で埋め込まれています。喫煙は、「タバコを吸おうかな、それとも、テレビを観ようかな」という思案の結果として選択された行動ではありません。少なくとも喫煙の習慣を生活から追放することを決めた時点では、喫煙に代わる選択肢を私たちは持っていないのです。だからこそ、手持ち無沙汰な者は途方に暮れているわけです。
これに対し、退屈の場合、退屈を惹き起こした行動は、自発的にであれ、あるいは、強いられた結果であるにしても、ともかくも複数の選択肢の中から選びとられたものです。したがって、BまたはCではなくAが一度は選ばれたとしても、Aが退屈である場合、Aに代わるものをゼロから考えなければならないわけではなりません。手持ち無沙汰の人にとって「気晴らし」が無意味であるのに反し、大抵の場合、退屈と「気晴らし」は一体をなしているのです。
とはいえ、これまで話題にしてきたのは、退屈を惹き起こす当の事柄に代わる気晴らしがあるようなタイプの退屈、つまり「不完全な退屈」です。形式的に考えるなら、自分の目の前にあるすべての選択肢が退屈に感じられる状態、つまり、いかなる気晴らしも逃げ道もない「完全な退屈」というものに囚われる可能性があります。完全な退屈とは、脱出不可能な、しかし、カラの密室に閉じ込められてしまったような状態を指します。ことによると、「うつ病」とは、意に反して陥った完全な退屈のことなのかも知れません。