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「哲学にアマチュアはいるか」という問いについて

by 清水真木

「哲学にアマチュアはいるか。」この問いに対し、私は、yesおよびnoという2つの答えを与えます。というのも、この問いは、2つの意味に理解することが可能だからです。

まず、「哲学にアマチュアはいるか」は、「哲学者はアマチュアか」という問いとほぼ同義です。そして、この問いに対する私の答えはyesです。

哲学は究極のアマチュアリズムであり、哲学者は、いわば「プロのアマチュア」であり「アマチュアのプロ」です。というのも、哲学者が哲学者であるとは、諸学問の分業を認め、また、その成果を必要に応じて大いに利用しながら、同時に、この分業制の内部にいかなる位置も持たない存在だからであり、限定された分野のスペシャリストにとどまることを断固として拒否するからです。

たしかに、哲学には、固有の問いの領域があります。このかぎりにおいて、哲学は1つのディシプリンです。しかし、この領域は、他の学問分野には手を出すことができないという消極的な理由で哲学の手もとに残ったものではありますが、この事実は、哲学に固有の問いの領域の限界が哲学者の関心の限界でもあることをいささかも意味しません。むしろ、他の学問分野の成果に——その分野の専門家からは恣意的と受け止められることがあるとしても——対しアマチュアとして無責任に光を当てる点に哲学者に固有の態度があると考えることができます。

当然、同じような態度は、哲学固有の領域にも向けられます。哲学者は、哲学を固定したパラダイムが支配するディシプリンにすることを好まず、ギリシア以来の伝統の内部において大雑把に「哲学」と呼ばれてきた範囲を自由に浮動してきました*1

『純粋理性批判』のA版の序文においてカントが指摘するように、ギリシア以来、哲学がその本質的な部分において何の確実な成果も産み出してこなかったとするなら、それは、万人を拘束するような「成果」に対するアマチュア的な——「あまのじゃく」にいくらか似た——拒絶反応が哲学を支えているからであるのかも知れません。

「哲学にアマチュアはいるか」が「哲学者はアマチュアか」を意味するかぎりにおいて、この問いに対する答えはyesです。しかし、「哲学にアマチュアはいるか」に対する答えがnoとなる場合があります。すなわち、この問いが「(プロではない)哲学愛好家は存在可能か」という問いに置き換えられるときです。

私は、哲学者から区別された「哲学愛好家」なるものの存在を認めません。世間には、たとえば哲学書を自発的に手にとったり、哲学者たちの言葉を解釈したり評価したりする人々は、ことによると「哲学/哲学史/哲学者愛好家」に属するのかも知れません。

しかし、哲学が前の文章で述べたような性質のもの、つまり、究極のアマチュアリズムであるなら、ここからは、「アマチュアリズムとしての哲学の世界にはプロしかいない」という、一見すると自己矛盾した結論が導き出されます。つまり、この世において出会われるのは「哲学のプロ」と「哲学とは無縁の者」だけであり、いわゆる「哲学愛好家」のための場所はないのです。「哲学愛好家」とは、自覚を欠いた「哲学のプロ」であるか、さもなければ、「哲学しているふりをしている者」あるいは「哲学しているつもりになっている者」であることになります。この意味において、哲学にはアマチュアはいないことになるのです。

*1:古代ギリシア以来の知的伝統の尊重は、哲学を哲学に似た知的活動から区別するただ1つの標識であると言うことができます。

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1 comment

Minor 2024年6月23日 - 3:21 PM

非常に興味深い内容でした。私は教育機関で哲学を学んだり、そういった類の書物を読み漁って知見を得たわけではないのですが、いわゆる哲学的な(死生観や世界の二項対立に対する究極的な解答を考えるなど、こういった類の物事が哲学と定義できるのかはわかりませんが)思索に耽る癖があります。だからと言って自身が哲学者と定義できるのか、と疑問に思っていましたが、本文を拝見してそのようなとらえ方ができることに気づきました。しかし未だ私が哲学者であるのか、“「哲学しているふりをしている者」あるいは「哲学しているつもりになっている者」”であるのかはわかりません。それを定義するのが自身であれ他者であれ、無限通りの人間の認知には正しいことも存在しないのでしょうが。

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