「ジャムをのせたパン」なるものを知らない人はいないでしょう。しかし、「ジャムをのせたパン」という言葉を目にしてさしあたり心に浮かべるものは、誰にとっても同じではありません。すなわち、もっとも馴染みのある「ジャムをのせたパン」を作るよう求められるとき、私たちが作るものは、(a)文字どおり、ジャムが直に載ったパンと、(b)バターがあらかじめ塗られたパンの上にジャムが載ったものに分かれるはずです。私が作るのは(b)の方です。
(a)と(b)のいずれを作るのが多数派であるのか、私は知りませんが、少なくとも、私にとって馴染みがあるのは(b)です。私の家族が作るのはすべて、パンの種類には関係なく、すべて(b)だったからです。それだけに、(a)を初めて見たときには、大きなショックを受けました。
小学校に入学して間もなく、コッペパンとジャムが給食に出されたことがありました。このとき、私は、あたりを見渡し、そして、生徒も先生も(a)を作りこれを平然と口にしていることに気づいて驚きました。それまで、(a)なる食べ物がこの世にありうるなど、想像すらしたことがなかったからです。
バター——あるいはその代用品としてのマーガリン——を塗らずにジャムをパンに直に載せることにより出来上がった食品としての「ジャムをのせたパン」(つまり(a))は、下着なしで衣服を身につけるのと同じような居心地の悪さを私に覚えさせます。つまり、(a)は、本来は省略してはならないはずのもの、しかし、省略してはならない理由を一言では説明することが難しい(=バターを省略しても、「ジャムをのせたパン」であることに変わりはない)ものが大胆に省略されているものなのです*1。
とはいえ、給食で出されたものを残すわけにも行かなかったため*2、私もまた、周囲に倣って(a)を作り、恐る恐る口にしてみました。
私がこのときに抱いた感想を現在の手持ちの語彙で婉曲に表現するなら、(a)の味は奥行きがなく単調でした。率直に言うなら、それは「みじめな味」でした。(b)の複雑な味が人類の味覚の洗練を象徴するのに対し、(a)の方の味は、無知と野蛮を想起させるもののように思われました。そして、それ以来、私は、(a)を優先的に避けるべきものに含めてきました。
もちろん、何をおいしいと感じるかは人により異なります。味覚に正解はありません。実際、私には「みじめ」と感じられる(a)においしさを見出す人が少なくないことを私は知っています。
ただ、複雑な味わいというものは、食品の「おいしさ」を決める要素の1つであると一般に考えられています。したがって、複雑な味を好む者の方が——行きすぎると鼻につきますが——味覚の点ですぐれていると言えないことはありません。食事にかかわる徳を想定することが可能であるなら、それは、たとえば(a)よりも(b)を選ぶ場面において発揮される何ものかであるように思われます。
*1:「ジャムをのせたパン」においてバターが担う役割は、「酢味噌和え」における砂糖の役割と同じです。「酢味噌和え」という名が材料として指定するのは「酢」と「味噌」であり、ここには「砂糖」の二文字は見当たりません。しかし、現実に多くの人が「酢味噌和え」の名のもとに食べているのは、砂糖入りの「酢味噌和え」でしょう。
*2:当時は、出された給食を決められた時間ですべて食べてしまわない者にはペナルティが科せられており、食が細かった私は、小学生のあいだずっと、このペナルティの常連でした。