※この文章は「自分を赦すことについて(前篇)」の続きです。
(1) 過去の「やらかし」が合理的な手段によって克服可能であり、かつ、克服(=つまり、現在と未来の生活の質を向上させる)見込みがあるのなら、このかぎりにおいて、過去の自分を直視することは無駄ではありません。しかし、克服の手立てを持たないまま、それ自体として変更することができない過去を繰り返し思い出し、みずからを繰り返し責めさいなむことは、無駄であるばかりではなく、強迫神経症的な自己虐待であり、不健全ですらあるように思われます。
ところが、過去というのは、その定義により、変化することはなく、消滅することもありません。自分の過去の「やらかし」は、私たちの意識にいつまでもとどまることになります。私たちは、好むと好まざるに関係なくみずからに対し「厳しすぎる」態度をとってしまうのです。「自分に厳しすぎる」というのは、人間の本性に属する傾向であり、特に困難なことではありません。自分に厳しい態度をとるのに特別な学習は不要です。
(2) むしろ、学習が必要となるのは、自分を「赦す」ことであり、自分を「赦す」技法であるに違いありません。実際、自分を適切な仕方で赦すことは、自分の過去を繰り返し審くことよりもはるかに困難です。(もちろん、「自分を赦す」とは、前に述べたような「相田みつを」的な現状への居直りを意味しません。)
それでは、自分を赦すとは何であり、どのようにすれば自分を赦すことができるのでしょうか。
過去に何かを「やらかした」自分がこれを「やらかした」時点において自分の行為に対して与えた評価と、現在の自分が同じ「やらかし」に与える評価は決して一致しません。両者が同一なら、そもそも何かを「やらかした」と認識することすらできないはずだからです。過去の出来事に対する現在の自分の評価は、同じ出来事に対するその時点での自分の評価と必ず異なっていなければならないのです。
しかし、現在の自分が過去の「やらかし」をどのように評価するとしても、いくつかの確実なことがあります。まず、現在の私の目に過去の「やらかし」と映ることはすべて、過去の私がみずから選びとったものです。換言すれば、私たちは、他から強制されて行ったこと、他の選択肢がなかったことを、決して「やらかし」として想起しません。「やらない自由」が与えられなかったことは、権利上、後悔の対象とはなりえないからです。
過去の「やらかし」がすべて自分の選択にもとづくものである以上、これを後悔するとは、過去の選択が最善のものではなかったことを現在の視点から確認し評価することに他なりません。しかし、冷静に考えるなら、私たちは誰でも、次の事実に気づくはずです。すなわち、過去の私の選択は、現在からは愚かに見えるかも知れないが、少なくとも過去のその時点ではさまざまな状況——自分の知識や周囲の思惑を含め——さまざまな点を可能な範囲で考慮した上でその都度最善と信じることを行ってきたという事実です。一方において、「今の自分なら同じことはしない」という評価は間違いではないのでしょう。しかし、他方において、「あの時点であの状況のもとでは最善の選択だった」という判断はつねに正しいのです。
私たちは誰でも、これまでの人生において、その時点でもっとも好ましいと思われたことをその都度選びとってきました。ソクラテスの指摘を俟つまでもなく、(現在の私の目に失敗と映るとしても、)その都度もっともよいと判断したこと以外は誰にもなしえません。私たちにとって必要なのは、過去において多くの失敗を重ねてきたことを認めながら、それとともに、過去の自分の選択がすべて、それぞれの時点では最善のものであったこと、状況が同じであり、気分が同じであり、知識が同じであるなら、間違いなく同じことをしたであろうと認めることです。そして、これが「自分を赦す」ことの意味です。「自分を赦す」とは、自分のこれまでのすべての選択を「現在完了形」で丸ごと承認し、その上で、さらなる成長へとみずからを投企することなのです。