今日、次のような記事を読みました。
私は、今回の御結婚については、賛成でも反対でもありません。いかなる事情があろうとも、わが国の憲法と法律が認める権利を行使することを止めるわけには行かないと考えるからです。
とはいえ、私には、今後の国民と皇室の関係について懸念していることが1つあります。
昭和から平成へと元号が変わって以来、公共の言論空間において天皇や皇室が話題になる場合、「天皇」や「皇室」の2文字に対し、「国民に寄り添う」「国民とともにある」「国民から愛される」などの修飾語が添えられることが多くなりました。
実際、地震や台風に代表される自然災害のあと、天皇陛下または皇族の方々が被災地を訪問されることが増えたように思われます。(少なくとも、昭和の時代とくらべ、公務の数は全体として大幅に増えました。このことは、公表された資料によって明らかです。)おそらく、最近30年くらいのあいだに、天皇と皇室は国民からさらに愛されるようになったのでしょう。
もちろん、天皇や皇室が国民に寄り添ったり、国民とともにあったり、国民から愛されたりすることは、それ自体としては悪いとは思いません。ただ、国民の側で勘違いしてはならないことが1つあります。それは、国民が天皇や皇室を崇敬するのは、天皇や皇室が国民に寄り添ったり、国民とともにあったり、国民から愛されるようなことをしているからではないこと、つまり、崇敬があくまでも無条件のものでなければならないことです。
天皇や皇室に対する国民の崇敬は、天皇や皇室の国民に対する愛の反対給付であってはなりません。愛の反対給付として提供される条件つきの崇敬など、もはや本当の意味における崇敬ではなく、取引相手に対する利己的な評価にすぎないからです。(このような取引が許されるのは、権力者を相手にするときだけです。)
天皇や皇室は、国民から「象徴」として無条件で崇敬される——憎まれさえしなければ、「愛される」必要はないと私は考えます——べき対象です。言い換えるなら、天皇陛下や皇族の方々は、(宮中の伝統行事を例外として、)具体的に何をされたか、あるいは、されなかったかによって評価されたり査定されたりするような存在ではないのです。
残念ながら、今回の約3年にわたる一連の「騒動」の中で、秋篠宮家、特に文仁親王殿下に対する中傷がネット上に繰り返し姿を現しました。もちろん、多くの人々が腹を立てるのには、それなりの理由があるのでしょう。
しかし、多くの国民が今回の一連の出来事とその結末を好意的に評価しないのであるなら、それだけ一層、私たち国民にとっては、天皇よび皇室に対する無条件の崇敬を早急に学びなおすことが重要な課題となります。
平成の時代には、平均的な日本人が「無条件の崇敬」を「愛の反対給付」から区別することを迫られることはなかったように思われます。(実際、女性誌の皇室報道では、両者の区別は一貫して無視されてきました。)
平成の30年のあいだに両者の区別が忘れられてしまったとしても、今回の一連の出来事は、国民にとり、皇室が「愛の反対給付」の対象ではなく「無条件の崇敬」の対象であることをあらためて認識するよい機会となるように思われるのです。