モニュメントというのは、何らかの意味において長期間にわたり記憶されるべきものを直にかたどったり、間接的に象徴したりして作られる構造物です。また、共同体全体が共有すべき記憶のよすがという性格上、モニュメントは、最低でも数十年間、場合によっては数百年間の風雪に耐えられるよう、金属または石を素材とするのが普通であり、さらに、不特定多数の目にとまるような場所に設置されるのが普通です
実際、このようなモニュメントは、人が集まり、集合的な記憶を新たにすることに意味があると思われるところならどこでも——街ばかりではなく、海辺にも、山の上にも——見出すことができます。
また、私たちが「モニュメント」「記念碑」「記念像」などの言葉を目にして最初に心に浮かべるのは、歴史上の偉人の銅像、史跡、史跡の址に設置された句碑、歌碑、あるいは、有名な彫刻家の手になるときには具体的な、ときには抽象的な——しかし、大抵の場合は、歴史に関する何らかの記憶に結びつけられた——オブジェなどでしょう。(冒頭の定義に従うなら、一部の廃墟を記念碑に含めることができないわけではありませんが、ここでは、廃墟はさしあたり措きます。)
もちろん、モニュメントとしてしか役に立たない構造物は、私たちの生活に必要不可欠なものではありません。何の役にも立たない構造物は、公共の空間では邪魔に感じられることがないわけではありません。それでも、ある空間に歴史的な奥行きを与えるものであり、共同体全体の記憶のよすがとなるものであるなら、このかぎりにおいて、モニュメントには価値があると私は考えています。
ただ、21世紀になってから、わが国では、誰にとっても記憶にとどめることが望ましい出来事、人物、理念などを表すモニュメントではなく、反対に、社会全体が共有するに値するかどうか微妙な記憶に形を与えるモニュメント、したがって、公共の空間を占有するに値するかどうか疑わしいモニュメントが急速にその数を増やしているように思われます。そして、私は、何十年かのちのこのモニュメントの行く末にいくらか懸念を抱いています。
私が好ましくないと考えるのは、具体的には、漫画やアニメの登場人物をかたどったオブジェです。
どれほど人気のある作者の手になるどれほど人気のある作品の登場人物でも、100年後に歴史にその名をとどめている可能性は決して高くはありません。
たとえば、東京都世田谷区桜新町の街頭には、漫画「サザエさん」の登場人物をかたどった銅像が設置されています。私が知るかぎり、「サザエさん」の銅像は、このタイプのモニュメントのうち、そのモデルの誕生(1946年)と製作、設置(2012年)のあいだの時間がもっとも長い(66年間)ものです。それでも、2012年からさらに66年が経過した2078年にもまだ、漫画の「サザエさん」が読者を獲得し、同名のアニメがテレビで放映され続けている可能性は必ずしも高くはありません。
そして、多くの人々の記憶から漫画とアニメの「サザエさん」が姿を消し、「桜新町にある正体不明のオブジェ」のモデルとしてのみ想起されるようになったとき、それでもなお、社会全体が共有すべき記憶のよすがとしての役割が「サザエさん」の銅像に認められるのかどうか、これを保存し維持するに値すると人々が判断するかどうか、・・・・・・私には大変に疑わしく感じられます。
モニュメントは、長期間にわたって公共の空間を占有し続けることに意味があるものです。変化を続ける都市において変化しないもの、都市のアイデンティティの要となるべきものです。その設置には、相応の——何百年経っても忘れられるべきではないという——確信と——何としても人々の記憶にとどめる——覚悟が前提となるはずです。
モニュメントというものは、人々がよく知っている漫画の登場人物であるという安直な理由で設置され、そして、モデルが人々の記憶から失われたという理由で同じように無造作に撤去され廃棄されてしまってよいものではありません。21世紀になってその数を増やしてきた「短命でありうるモニュメント」には、都市空間とその内部における私たちの生活の質をともに毀損する危険がある、したがって、設置には最大限の確信と覚悟が必要であると私は考えています。