私たちは誰でも、毎日何かをしています。言葉の厳密な意味において「何もしない」ことは不可能です。
また、よほどヒマを持て余しているのでないかぎり、何らかの意味において「なすべきこと」を抱えているのが普通です。そして、大抵の場合、「なすべきこと」のために必要な時間と体力の総量は、実際に使うことのできる時間と体力を超えており、しかも、両者のあいだの差は、時間の経過とともに大きくなる一方であるに違いありません。
さらに、「なすべきこと」の量があまりにも多く、全体を一望することができなくなるほど多くなると、何から手をつければよいのかわからなくなり、途方に暮れてしまうことがあるでしょう。これは大変に不幸な事態であると言うことができます。
しかし、少し冷静に考えるなら、「なすべきこと」は、大きく2種類に区別されることがわかります。すなわち、「なすべきこと」には、「必ずしなければならないこと」と「しないよりはした方がよいこと」の2つがあるのです。
私たちは、普段の生活において、さまざまなことを「なすべきこと」のリストに気軽に放り込みます。しかし、リストが長くなるとともに、生活は秩序を失い、リストが用意されているにもかかわらず、かえって本当の「なすべきこと」がわからなくなって行きます。そして、このような状況のもとで、本当に大切なのは、誰が考えてもわかるように、ごく少数の「必ずしなければならないこと」であり、大量の「しないよりはした方がよいこと」は、優先順位に関する私たちの判断を誤らせる——あるいは停止させる——ノイズとなります。「なすべきこと」に関するリストを形作る予定や計画や願望はほぼすべて、「しないよりはした方がよいこと」なのです。
実際、私たちの周囲は、「しないよりはした方がよいこと」で溢れています。本は、読まないよりは読んだ方がよいに決まっています。運動は、しないよりはした方がよいに決まっています。年賀状は、書かないよりは書いた方がよいに決まっています。初詣には、行かないよりは行った方がよいに決まっています。英語は、勉強しないよりも勉強した方がよいに決まっています・・・・・・。
しかし、「しないよりはした方がよいこと」は、優先順位の低い「なすべきこと」ではありません。何かを「しないよりはした方がよいこと」と見なし、これを「なすべきこと」のリストに放り込むとき、私たちは、他人——世間のこともあれば、特定の誰かのこともあります——の価値評価の基準を不知不識に受け容れています。Xについて、これを「しないよりはした方がよい」と判断するとき、「しないよりはした方がよい」という表現は、「これを重要であると見なす者が世の中に少なくとも1人はいるが、それは私ではない」という言明を短縮したものにすぎません。長くなったリストが混乱し、さまざまな「なすべきこと」のあいだで目移りが起こるのは、「しないよりはした方がよいこと」が他人に由来するものであることが忘れられたせいなのです。他人にとって優先順位が高いことが、私にとってもまた同じように重要であるとはかぎりません。むしろ、万人が最優先の課題とすべきものなどないと考えるのが自然です。
私たちがなすべきであると見なしていることの大半は「しないよりはした方がよいこと」であり、これは生活の質を損なうノイズであり、本質的に「しない方がよいこと」と見なされなければなりません。「なすべきこと」が何かが心に浮かんだときには、なぜこれを「なすべき」であると判断したのか、その根拠を冷静に考え、本当に必要ではないもの、時間、金銭、体力、気力、集中力などを奪うものを生活から排除することは、「なすべきこと」の量を処理可能な範囲に抑え込むために誰がつねに心がけなければならないことであるに違いありません。