私が自分の「仕事」と見なしている作業は、大きく2つの種類に分かたれます。すなわち、研究の遂行や執筆活動のような個人単位で行われる知的作業と、集団の内部で発生した具体的な諸問題を——大抵の場合、集団として——解決するために必要となる一連の作業、これら2つが私の「仕事」には属しています。そして、私は、後者の意味における「仕事」が問題であるかぎり、みずからが「仕事ができる」とは考えていません。また、このように考えたこともありません。
そもそも、私は、これまでの人生において、「仕事ができる」ことを期待された経験を持ちません。この意味において、私の人生は、他人の生活に直接の影響を与えることの少ないお気楽なものであったと言うことができます。また、それだけに、「仕事ができる」とはどのようなことであるのか、何がどのようになると「仕事ができる」ことになるのか、直接に語る資格は私にはないように思われます。
ただ、「仕事ができる」の意味はわからないとしても、「仕事ができない」人が持つ特徴の方は何となくわかります。というのも、これまでの人生において、「仕事ができない」人々から迷惑を被ったことが一度ならずあるからです。
形式的に見るなら、「仕事ができない」人は、「仕事ができない」かぎり、必ず自分について「仕事ができる」という思い込みに囚われています。つまり、仕事に関する自分の判断や実行力をつねに過大に評価しています。なぜなら、仕事に関し能力に乏しい人が自分の能力を正しく見積もっているのなら、このような人は、「できない」仕事などに最初から手を出さず、したがって、「仕事ができない」人ではなく「仕事しない」人となるはずだからです。言い換えるなら、「仕事ができない」人とは、自分自身の能力の過大な評価にもとづいて何かを実行し、そして、その失敗によってみずからの周囲や集団全体に繰り返し迷惑をかけ、かつ、自分ではこの事実に気づかない——あるいは、この事実をかたくなに認めようとしない——人でなければならないことになります*1。
*1:「仕事ができない」人は、同じようなことで「繰り返し」失敗し、「繰り返し」迷惑をかける人でなければなりません。なぜなら、失敗が1回かぎりであるなら、その人は、「仕事ができない人」ではなく「ミスした人」と見なされるにとどまるはずだからです。「仕事ができない」人は、「経験に学ばない」人でもあるのです。