Home 世間話 「仕事ができない」人の性格を形式的に考える(その2)

「仕事ができない」人の性格を形式的に考える(その2)

by 清水真木

 「仕事ができない」人がこのような性格を具えているなら、その原因は、おのずから明らかであるように思われます。すなわち、集団の内部における「仕事」における失敗、しかも、繰り返される失敗とは、何よりもまず、集団の内部における「仕事」なるものの意味の誤解に由来する失敗であり、集団の内部における「仕事」の意味をめぐる誤解とは、集団の内部における意思決定の本質をめぐる根本的な誤解であると言うことができます。

 家族、地域社会などのように共通の目的を持たない人々の集団とは異なり、たとえば役所や企業のように、特定の利益を目的とする集団——「仕事」が発生するのは、このような集団の内部です——の場合、集団全体に影響を与えるような意思決定には何らかの「大義」を欠かすことはできません。誰かが個別の紛争の処理を必要としているとき、あるいは、誰かにとり個別の問題の解決が必要であり、かつ、紛争の処理や問題の解決が集団に何らかの影響を与える可能性があるときには*1、紛争の処理や問題の解決がそれ自体として当事者にとって好ましいばかりではなく、集団全体の利益にもなる——これが「大義」の意味です——ことの説明が絶対に必要となります。集団において「仕事する」とは、〈私が抱えているこの問題をこのように解決すれば、集団全体にとってこのようなよいことがあります、だから集団全体として解決に協力してください〉と説明し、集団を動かすことに他なりません。周囲を説得することができさえすればただちに「仕事ができる」ことになるとはかぎらないかも知れませんが、少なくとも、説得の努力を怠れば、それだけで「仕事ができない」と認定されるには十分であるに違いありません。

 困った問題を抱えて苦境に陥っていることが周囲に知られると、大抵の場合、親身になって話を聴き、問題解決の手助けを約束してくれる人が現れます。私自身、これまでの人生において、自分が原因のトラブルで身動きがとれなくなったことが何回もあります。そして、このようなとき、「一見親切そうな」人々が決まって姿を現し、協力を約束してくれました。

 けれども、親身になって話を聴き、そして、協力を気軽に約束してくれるのは、少なくとも私の経験では例外なく、「仕事ができない」人々です。このような人々に頼ると、問題がかえって複雑になり、解決が困難になります。

 もちろん、「仕事ができない」人々には、問題を面倒にするつもりはないのでしょう。ただ、彼ら/彼女らには、集団の「大義」がなるものがわからず、そのため、誰の協力も得ることができません。「仕事ができない」人とは、自分自身や当事者に寄り添いすぎて、全体を見失い、しかも、全体を見失っていることに気づかない人なのです*2
 「仕事」に関する自分の能力を批判的に——つまり、冷静に——見積もること、そして、「仕事のできない」人々からは可能なかぎり距離をとること、これは、集団の内部において楽しく生きるための知恵であるように思われます。

*1:これは、「自分の問題を集団全体の問題として解決してもらいたいのなら」ということです。

*2:「仕事ができない」ことは、〈集団内で認められている意思決定の手続きを守らない/守れない〉ことと同義と見なされることが少なくありませんが、それは、「仕事ができない」人には全体——つまり「大義」——を考慮することができないからに他なりません。

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