他人、特に必ずしも感じのよくない他人のつらい体験談のようなものを聴いていると、こちらの反応によっては、「あなたなんかに私の気持ちがわかるわけがない」「同じ体験がないあなたに私のつらさがわかるわけがない」などの言葉を投げつけられることがあります。
一方において、他人のつらい体験や気持ちに寄り添おうとするとき、「気持ちはよくわかります」「私にも同じ経験があります」(←これは最悪です((セレステ・ヘッドリーのTEDでの有名なスピーチ「上手に会話する10の方法」では、決して言ってはならないことの1つに数えられています。
))。)などと反応してしまいがちです。しかし、私は、このようなとき、肯定も否定も質問もせず、相槌すら打たないようにして、つまり反応せずに黙って聞くことにしています。少なくとも、相手の気持ちが実感としてわかるふりはしません。(相手の気持ちがわかるふりをしたり、あるいは、さらによくないことに、相手の気持ちがわかっていると思い込むことは、「仕事ができない」人に共通の特徴です。)
というのも、私の前で体験や気持ちを開陳している当人は、自分の経験や気持ちがそれなり深刻であり、かつ、決して平凡ではなく、さらに、伝えるための固有の語彙に乏しいことを知っているはずだからです。また、伝えることの難しさを十分に承知しているからこそ、私に伝えるために言葉を費やしているはずです。したがって、そもそも、その人の体験や気持ちなど、私にわかるはずがないと考えるのが自然です。
けれども、他方において、(たしかに、特別なインタビューや事情聴取や面談では、その人にしかわからない特殊なことに寄り添う想像力が必要となる場合がないわけではないとしても、)日常的な意思疎通の場面では、自分に固有の体験や気持ちがどれほど特別であり、「体験したことがない者にはわからない」性質のものであるとしても、このような体験や気持ちを、自分の立場や主張を正当化するための盾として利用すべきではないと私は考えています。
ある人が私の気に入らないことを主張し、これに対し、私が「同じことを体験していないあなたに私の気持ちなどわかるわけがない」と決めつけ、自分だけの特殊な体験を自分の正当性の根拠とするなら、このとき、私と相手とのあいだに横たわるのは、(「おとなしく私に賛成しろ」という)単なる威圧であり「マウンティング」にすぎません。
意見の一致を目指すオープンな会話では、何についても、「同じ体験を持たない者にはわからない」という意味のことを主張してはならないと私は考えています。自分に固有の体験を根拠として何かを主張する者には、この体験の意味と意義を十分に説明し、これを相手に理解させ、相手と認識を共有する責務があるはずだからです。
現在の日本における日常的なコミュニケーションの場面、特にある程度以上の年齢の人々のあいだの会話に姿を現すこのような威圧のうち、もっとも典型的であるのは、「子ども」や「子育て」に関するものなのではないかと想像します。
子どもを持つ女性と会話しているとき、日常生活に関する話題で意見が一致しないと、「子どもがいない人にはわからない」「子育てすればわかる」などという呪文を投げつけられ、不快な思いをした人は少なくないはずです。私自身は、男性であり、また、幸いなことに、知り合いに「子持ち」が少ないため、子育ての体験を直に盾として使われる機会は滅多にありませんが、女性の中には、このようなフレーズをうんざりするほど聞かされたという人が少なくないに違いありません。
日常的な会話において、子どもを持つ女性(たち)から「子どもがいないあなたにはわからないと思うが・・・・・・」などと決めつけられそうになったら、そのたびに、「それなら、子どもがいると何がわかるようになるとあなた(たち)は考えているのか、そして、子どもがいないかぎりこのような理解/洞察/認識には到達することができないとあなた(たち)が決めつける根拠は何か、最初に詳しく説明してほしい」と求めることは、会話の当事者の当然の権利であると私は考えています。