※この文章は、「ウクライナの大統領がアメリカ議会での演説において真珠湾攻撃に言及したことについて(前篇)」の続きです。
もちろん、私が選びとったのが、これを選びとる瞬間の私にとって「もっともよい」ものであったとしても、この事実は、あとから振り返ってもなお、選びとられたものが「もっともよい」ものであることをいささかも保証しません。
また、この事実は、私にとって「もっともよい」ものが万人にとって「もっともよい」であることを意味するわけでもありません。これらはすべて、まったく別の話です。
真珠湾攻撃の背後に「やむをえない事情」があったこと、これは動かしがたい真実です。
また、少しでも日本史を勉強したことがある者なら、この「やむをえない事情」について若干の知識を持っているに違いありません。
しかし、この「やむをえない事情」は、現在から振り返って真珠湾攻撃を端的に「悪」と評価することを妨げるものではありません。
ロシアについても事情は同じです。ウクライナへの侵攻は、複雑な意思決定が何重にも積み上げられた結果として惹き起こされたものであるに違いありません。
そして、このような意思決定のうち、その一部は、他人の目にはバカげたものと映るでしょう。また、本来なら考慮されるべき要素を見落としたまま何かが決められたことが一度ならずあったかも知れません。
もちろん、ウクライナにとり、侵略が災厄以外の何ものでもないということは誰の目にも明らかです。いかなる理由によるものであるとしても、ロシアの侵略は端的に「悪」と見なされなければなりません。
それでも、意思決定の積み重ねのそれぞれの瞬間において、ロシア政府が、そして、ロシア人が、さまざまな要素を考慮した上で、何らかの意味でつねに「もっともよい」と(少なくともその瞬間には)信じたものを選びとってきたこと、これもまた事実なのです。
これまで人間によってなされたすべてのことは、例外なく、これがなされた瞬間においては、これをなした当人によって「もっともよい」と判断されたものであり、また、「もっともよい」と判断されたものでしかありえないこと、したがって、どのような「悪」の背後にも「やむをえない事情」が必ず横たわっていること、しかし、この「やむをえない事情」は、その悪をなした者を決して免責しないこと・・・・・・、真珠湾攻撃とロシアによる侵略が並べて語られたことに憤慨する前に、私たちは、この真理を想起しなければなりません。
また、この真理を想起し反芻することによって初めて、私たちは、イデオロギーから解放され、公平に、虚心に人間の世界を眺めることができるようになるはずです。