※この文章は、「京都の神社仏閣に課税することに反対する(前篇)」の続きです。
京都を訪れる観光客は、京都の寺社に対し、「昔ながらの姿がきれいに維持されている」ことを当然のことのように期待します。そして、観光客による評価は、観光地としての京都の価値を左右します。観光客の目に日々さらされる京都の寺社はいずれも、自分たちの都合だけで維持、管理するわけには行かず、その維持、管理のレベルを観光客の期待に合わせることを余儀なくされているはずなのです。これは、それぞれの寺社の経営にとっては、大きな制約になっているに違いありません*1。
このような事情のもとでは、信仰に関する部分について固定資産税が免除されているとはいえ、宗教法人の経営がラクであるはずはありません。むしろ、新型コロナウィルス感染症の流行により拝観料の収入が途絶した現在では、時間の経過とともに幾何級数的に増えて行くメインテナンスのコストを「根性」や「責任感」によってかろうじて賄っている宗教法人が少なくないのではないかと想像します*2。観光地としての京都の都市景観の維持、管理を日々担ってきたのは、行政でなく、宗教法人に代表される「私的」な存在であることがわかります。
京都の神社仏閣に新たに課税することを検討するなら、神社仏閣が、公的なシステムではなく、私的な存在の根性と責任感に頼って維持されてきたという事実をまず確認し、これを適切に評価することが必要であるように思われます。
そして、このような事実を受けてもなお神社仏閣に新たに課税することは、京都に住む人々に、私のようなよそ者にもまた、若干の覚悟を要求します。
たとえば、宗教法人の経営が税負担に耐えられなくなり、財源を捻出するために所有する文化財を売却し、これが海外に流出することがあるかも知れません。メインテナンスのコストが手当できなくなって境内が荒れ、観光客による評価が下落することもあるでしょう。それどころか、ある日突然、有名な寺院が消えて単なる空き地になり、そこに分譲マンションが建つというような事態も、決してないとは言えないように思われます。
神社仏閣から新たな税金をあえて徴収するのなら、私たちは、このような事態を予期しなければなりません。また、これらが現実のものとなっても、当の神社仏閣を非難することは誰にもできないでしょう。
京都の重要な観光資源としての神社仏閣を維持することの意義を認めるのなら、新たな課税など論外である、それどころか、「美観」の維持が大切であるなら、文化財の保護が大切であるなら、公的な補助を検討してもよいのではないか・・・・・・、よそ者の私は、このように考えています。
*1:つまり、建物が老朽化して維持管理にコストがかかるようになっても、「メインテナンスがラクな素材で建て替える」わけには行かないということです。
*2:風情のある町家に代表される「昔ながらの街並み」の維持と管理についてもまた、事情は同じはずです。いや、むしろ、町家については、固定資産税が免除されない分、神社仏閣よりも事態はさらに深刻であるかも知れません。