※この文章は、「音読を支える黙読について(前篇)」の続きです。
私たちの聴覚は、視覚から完全に独立してはいません。音声として受け止めた言葉は、たとえば定型的な表現のように、そのまま〈直接に〉理解される場合が少なくありません。また、具体的なモノを指し示す言葉なら、その音声は、そのモノを直接に想起されるでしょう。
しかし、ときには、耳に届く音声は、私たちに文字の想起を要求します。黙読が支配的になり、読む作業における視覚の役割が大きくなったせいなのでしょう、近代以降のテクストは、括弧やダッシュなど、主に視覚に訴えることを目的とする記号を自在に使用してきました。そして、これらの記号を含むテクストの音読を理解するためには、音声に耳を傾けながら括弧やダッシュを心の中で再現することが必要となります。
あるいは、日本語のテクストの音読では、同音異義語を適切に判別する作業を避けて通ることができません。日本語は、同音異義語が特に多い言語だからです。
音読に耳を傾けこれを理解するためには、多くの同音異義語から文脈に合致する言葉を選ぶ——というよりも、もとのテクストにおいて使われていた文字(列)を想像する——作業が必須となります。日本語のテクストの音読を聴くとき、私たちは、耳に届く音声をもとにテクストの一部を心の中で再構成し、これを黙読していることになります。
実際、夏目漱石や森鴎外に代表される明治時代の文学作品を音声のみを頼りに理解するのは、文字を目で追うよりもはるかにつらい作業となるでしょう。漱石や鴎外の作品において同音異義語がどれほど使われていても、文字を視覚的に確認することができるかぎりにおいて、その意味の理解に特別な困難を感じることはありません。しかし、膨大な同音異義語を含む彼らの作品を音声のみを頼りに理解するためには、同音異義語が耳に入るたびに複数の候補を心に浮かべ、文脈にふさわしものを選び出すパズルのような作業を休むことなく続けなければならないのです。
音読されたテクストの理解は、聴く作業と並行して行われる黙読によって支えられているのであり、この意味においてもまた、音読というものは、黙読に支えられて初めて成立するものであると言うことができるのです。