何かを読む作業というものの歴史を遡るなら、その最初の姿が音読であったことがわかります。古代ギリシア人は、視界に入り込み注意を惹く文字を原則としてすべて声に出して読んでいました。ローマ人もまた、基本的に同じです。
もちろん、古代人に黙読ができなかったわけではありません。古代人が黙読しなかったのは、古代世界において、読むことがそれ自体としてコミュニケーションであり、読まれるという出来事の意義は他人との共有においてその本来の姿を現すと一般に考えられていたからです。(古代世界では、読書にプライバシーはなかったことになります。)
したがって、黙読は、共有することが憚られるような何かやましい企ての証拠として受け取られたり、他人とのコミュニケーションを遮断する意思表示と見なされたりするのが普通でした。
とはいえ、古代末期以降、読むことの本来の姿は、音読から黙読へと次第に変化して行きます。最終的に、印刷術の普及以降、文字を物理的な音声へと反射的に変換する習慣はヨーロッパから姿を消すことになります。これは、読書と読者の関係の決定的な変化であり、この変化は、たとえば次の本に具体的に記されています。
ただ、読む作業が音読として誕生し、その後、黙読が支配的となったという事実は、音読と黙読のあいだに横たわる関係とは必ずしも一致しません。音読が支配的であった時代が黙読の時代に先立つとしても、権利上、音読が黙読に先立つわけではないからです。古代人の理解に反し、読むことの本来の姿が音読に見出されるとは言えないように思われるのです。
この点は、たとえば次のような事実によって容易に確認することができます。私たちが何らかのテクストを音読するとき、なじみのある文、あるいは、ごく短い文でないかぎり、私たちは、これをいきなり音読することはありません。
他人に聴かれることを前提として音読する場合、私たちは、音読の前に少なくとも一度はこれを黙読し、読み間違えることがないよう、その内容や言葉遣いを確認するはずです。私たちは、音読する前につねに黙読しているのです。
また、音読に耳を傾ける場面を想像するなら、読まれた文字の受容が一種の黙読に依存していることがわかります。(後篇に続く)