※この文章は、「『嫌なら付き合うのをやめればいいのに』という意見について(前篇)」の続きです。
ただ、この点について1つだけ確かなことがあるとするなら、「それほど不快なら関係を続けなければいいのに」「嫌なら付き合うのをやめればいいのに」などの感想は、フェミニズムの立場からは到底受け容れられないものである点です。
そもそも、問題の女性の発言に関する私の感想は、「自分がどのようにふるまうべきか、大抵の場合、女性には判断し決定するに足る自由があり、したがって、その責任は女性がみずから負うものである」という了解を前提とします。しかし、フェミニズムに分類される言説一般の最大公約数的な特徴は——私が理解するかぎりでは——このような了解を前提とする主張をすべて斥ける点にあります。すなわち、女性の自由は(男性、制度、権力等々によって)制限されてきた、そして、今でも制限されている、したがって、女性は全面的に免責されるべきであり、女性のふるまいの責任は、女性の自由を制限する側に帰せられる・・・・・・、「フェミニズム」が共有する暗黙の了解は、このように言い表すことができます。
言葉の狭い意味における「フェミニスト」を前にして、「それほど不快なら関係を続けなければいいのに」「嫌なら付き合うのをやめればいいのに」などと口走るなら、私は瞬殺されてしまうことでしょう。
しかし、フェミニズムの論法が妥当であるなら、この社会というのは全体として、学校あるいは刑務所の雑居房のようなものであり、女性は、この雑居房あるいは学校においてたえず「いじめ」を受けているか、あるいは、少なくとも「いじめ」の危険にさらされている存在と重ね合わせられなければならないことになります。
もちろん、この想定が現実に合致するような状況がないわけではありません。たとえば、中東諸国あるいはアフリカ諸国を代表として、抑圧的な国家の多くが女性にとっては逃げ場のない閉鎖的な空間を作り上げてきたことは事実です。
しかし、現在のわが国の女性をめぐる状況がこのような国々とまったく同じであるはずはありません。少なくとも、芸人の不倫相手には、みずからの選択とその結果について十分な責任を負う資格があり、したがって、芸人のふるまいに嫌悪感を表明することは、そのまま、この嫌悪感に耐えて芸人と付き合い続けた女性みずからを傷つけることにもなるように私には思われます。