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※この文章は、「他人の不幸について(全7回の1)」および「他人の不幸について(全7回の2)」の続きです。
当然、説明し他人と共有することが困難であるかぎり、このタイプの不幸は、この意味において——大抵の場合、他人に与える影響は小さいとしても——「複雑」であり「非定型的」であると言うことができます。
厄介なことに、名前を持たない不幸は、誰の目にも特異なものと映るがゆえに共有不可能なのではありません。むしろ、大抵の場合、名前を持たない不幸に名前が与えられないのは、人々の死角に入っていたり、人々の注意を惹くような際立った目印を持たない——というよりも、与えることができない——せいなのです。
そして、私たちは、「名前を持つ不幸」と「名前を持たない不幸」を不知不識に別の事実と見なし、それぞれ異なる手順に従って克服を試みています。
一方において、名前を持つ不幸は、情報や記憶を共有することにより、集団として、あるいは社会として、これを克服したり、これに耐えたりすることが好ましいと一般に考えられています。具体的には、当事者を支援する団体が作られたり、マスメディアで紹介、解説、論評されたりすることにより、情報と記憶が広い範囲に伝えられます。そして、事柄により射程は区々であるとしても、それぞれの不幸が、少なくとも権利上は、共同体を構成する誰もが感心を持つべき事実として受け止められます。これは、犯罪、自然災害、戦争、迫害など、すべての場合において同様です。(全7回の4に続く)