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他人の不幸について(全7回の2)

by 清水真木

※この文章は、「他人の不幸について(全7回の1)」の続きです。

たとえば、戦争の被害者の不幸、自然災害における被災者の不幸、大規模な、あるいは、典型的な犯罪の被害者の不幸、親族の長期にわたる介護が原因で惹き起こされる不幸、社会における特定の立場(貧困、国籍、政治的信条、信仰、性的指向など)に由来する不幸・・・・・・、このような不幸は、「名前を持つ不幸」の代表です。

とはいえ、「名前を持つ不幸」の経験に実際に与る人は、数の点では必ずしも多くはありません。むしろ、私たちが不幸と見なす事態はほぼすべて、「名前を持たない不幸」に属します。

名前を持つ不幸は、大規模であり複合的であるとしても、本質的に「単純」であり「定型的」です。また、単純であり定型的であるからこそ、不幸を経験した人々の集団を超えてこれを「社会の不幸」と見なして共有することができます。

たとえば、1995年1月の阪神淡路大震災について、私たちは誰でもその事実を知っています。また、その災害としての規模や被災の実態も、多少は知っています。したがって、みずからは被災しなかったとしても、被災者の苦労は、誰でも何となく見当がつきます。

これに反し、名前を持たない不幸は、「幸福を感じられない状態にある」という意味では不幸であるとしても、その状態が、いつ、何が原因で始まったのか、生活のどの範囲にどのような影響を与えてきたのか、このような点が当事者にとってすら曖昧です。つまり、他人に対して説明することの困難が名前を持たない不幸の特徴であると言うことができます。(全7回の3に続く)

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