Home やや知的なこと ミニマリズム(への道)としての自己への還帰について(前篇)

ミニマリズム(への道)としての自己への還帰について(前篇)

by 清水真木

 人間を人間以外の存在者から区別するものは何か。この問題に答えることは容易ではありません。

 伝統的には、人間には理性があり、道具を用いてものを作ることができる点において他の生物とは異なると考えられてきました。人間が「ホモ・ファベル」(homo faber) と言われる所以です。しかし、20世紀以降、(「理性」は今は措くとして、)ものを作る能力については、他の動物にも認められるという主張が姿を現し、かつ、私にとっては不思議なことに*1、この主張は広い範囲で受け容れられるようになりました。

 「同じことは動物にも認められる」という文字列は、一種の呪文です。伝統的に人間に固有と見なされてきた能力や性格に対し、「同じことは動物にも認められる」という呪文を投げつけるだけで、人間の人間らしさのようなものは簡単に色褪せてしまいます。現代の人類は、「科学的」知見を総動員し、人間の固有性というものを全力で否定しようとしているように見えます*2

 現代においてこの呪文の犠牲になったのは、ものを作る能力だけではありません。言語、遊び、藝術、計算、愛などが、人間らしさの標識としての地位を脅かされつつあります。遠い将来、人間は動物と何ら異なるところはない、などという、直観にも事実にもいちじるしく反することが堂々と語られるようになる可能性はゼロではないような気がします。

 ところで、これもまた、いずれは上記の呪文の犠牲になる可能性がありますが、今のところ、人間には、他の存在者には見出すことができないものが少なくとも1つ認められます。すなわち、人間には、自分自身のあり方について考える能力が具わっており、かつ、この能力は、他の動物には認めることができないと一般に考えられています*3

 すでにソクラテスを主人公とする初期プラトンの対話篇には、人間に具わる「自分自身のあり方を問う能力」の意義を強調する記述が散見します。(だから、「よく生きる」ことは人間にのみ許されているのです。)このような人間理解は、アリストテレス、プロティノス、アウグスティヌス、スピノザ、ライプニッツ、ヘーゲルなどを経てハイデガーまで、哲学の歴史に繰り返し姿を現す重要な洞察であると言うことができます。(後篇に続く)

*1:「人間と同じように道具を使ってものを作る動物がいる」という主張が私にとって受け容れがたいのは、人間が何かを作るのと同じ意味において動物が何かを作るようには思われないからです。たしかに、動物もまた、自然物を特定の手順で変形し加工し、自然にはないものを産み出します。しかし、私が知るかぎりでは、この操作は、言葉の本来の意味における「製作」(ポイエーシス)と見なすことはできません。同じことは、AIを搭載したロボットが産み出すものについても言うことができます。

*2:現代でもなお、アメリカでは、生物の進化の事実を認めない創造論者が教育に強い影響を与えています。創造論は、それ自体としては、科学的な根拠を持たない単なる憶測にすぎませんが、それでも、科学の発展が人間から人間らしさを剥奪しているように見えることに対する苛立ちとして理解することができないわけではありません。

*3:狂信的な愛犬家のあいだでは、事情は違うかも知れません。

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