Home 世間話 「メールを転送する」とは何をすることであるのか

「メールを転送する」とは何をすることであるのか

by 清水真木

 私が電子メールなるものを初めて使ったのは、1997年のことです。メールとの付き合いは、今年で25年になります。

 とはいえ、この連絡手段との関係は、必ずしも心地よいものではありませんでした。今でも、私は、メールを必ずしも好みません。最大の原因は、もちろん、私が基本的に不器用であり不精であることです。

 それでも、あえて自分のことを棚に上げ、周囲を観察するなら、私がメールを苦手とする原因の1つに、私たちの社会が「普遍的なメールの作法」なるものを持たないという事実、そして、このような作法がいまだ形成の途上にあるという事実を挙げることができるかも知れません。

 「メールの作法」が現在でもまだ確立していないという意見には、「お前が知らないだけだろ」という形式的な反論が可能です。たしかに、私は、25年間もメールを使っているにもかかわらず、メールのやりとりに関し、普遍的な作法があることを知りません。(普遍的な作法があることを主張する人はいくらでも知っていますが、その「作法」の内容はまちまちです。そして、「作法」の内容がまちまちであることは、普遍的な作法などないことのもっとも確実な証拠となるように思われます。)

 そもそも、「作法」なるものは、他人とのコミュニケーションにおいて相手に不快感を与えないためのルールですから、1対1の対等なコミュニケーションなら、いずれか一方がその作法を承知していない場合、その作法は、少なくともその場面では通用しません。マナーや常識と事情は同じです。

 「メールの作法」なるものがあるとしても、それは、限定された者たちを拘束する「ローカル」な作法にすぎません。

 そして、このような事情があるせいで、私は、メールを受け取るとき、その書き手が当然のことのように前提とする「メールの作法」に違和感を覚えることが少なくありません。特に強い違和感を抱くことが多いのが、「転送」の作法です。

 そもそも、自分に届いたメールを誰かにわざわざ「転送」することの目的は、何かを「確証」(confirm) してもらうことにあります。1通のメールが転送されるのは、誰が、いつ、誰に、何を、どのような形式で知らせてきた――あるいは問い合わせてきた――かをパッケージとして他人に直に示すことが必要となる場合であり、かつ、その場合だけです。「確証」とは、転送を中継した者への最低限の信頼を前提として、このパッケージが真正のものであると受け止めることを意味します。

 そして、転送の目的が事実のパッケージの確証であるかぎり、転送が「転送」の名にふさわしいものであるためには、以下の4つの条件をすべて満たすことが必要となります。

  1. 添付ファイルを含め本文を丸ごと転送すること。
  2. ヘッダーを省略しないこと。
  3. メールのコンテクストを本文で説明すること。
  4. 拡散される可能性をもとの書き手が想定していないときには事前に転送の承諾を得ること。

 これら4点のうち、1つでも欠けているものを「転送」と呼ぶべきではありません。少なくとも、1.と2.を満たさないものは転送ではなく、単なる「引用」にすぎないと考えるべきです。

 特に、「個人情報が含まれている」という理由で一部が削除されているメールを「転送」という名目で送信することには、ほぼ何の意味もないと考えるべきでしょう。ヘッダーとともに丸ごと転送しなければ、読み手は、ある人物がメールで何か特定の内容について語ったという事実を「確証」することができないからです。

 もちろん、改竄の可能性があるかぎり、どのようなメールも厳密な意味での「証明」にはなりません。しかし、転送を中継する者に対し、「改竄をあえて試みることはあるまい」と予想することができる程度には信用を置くことができるなら、このかぎりにおいて、省略なしの丸ごとの写しにもとづいて、そこに含まれる情報の真正であることをさしあたり確証することが可能となります。これがメールの転送の意義であり効用であると言うことができます。

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