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純粋押印論(その2)

by 清水真木

※この文章は、「純粋押印論(前篇)」の続きです。

ただ、「押印は完全に無駄であり、すべて廃止してもかまわないのか」と問われるなら、私は、「完全に無駄であるとは言えない」と答えます。押印の本来の目的に注意を向けるなら、廃止することができない場合があることは明らかです。

よほど特殊なポリシーを持つ人でないかぎり、押印を必要とする文書を作成するとき、ハンコを押す作業から始めることはないはずです。むしろ、ハンコを押すのは、文書作成の最後のプロセスであるのが普通です。すなわち、文書への押印には、意思確認や本人確認の機能はないとしても、少なくとも、その文書作成が一応完了したこと、自分としてはこれ以上手を加えるつもりがないことを他人に知らせる役割が認められるのです。(契約書を作成するとき最初に押印するというのは、文章を書くときに、句点を打ってから文字を書くのと同じです。)

たしかに、自分で作成し、誰にかに届ける文書であるなら、文書を届けるという行動のおかげで、押印がなくても、これが完成したものであることがわかります。しかし、文書の種類や作成の状況によっては、押印がないと、これが完成した文書であるのか、それとも、書きかけであるのか判別することができません。押印を必須とする文書とは、内容がどのようであるとしても、当事者がその完成を認めることが絶対に必要なものであることになります。

文書への押印に伝統的に認められてきた本人確認や意思確認の役割は、押印に具わる「最後の作業」という性格から派生したものであり、文書作成のプロセスにおけるこの「順番」——活動を区切るという役割——こそ、押印の存在理由なのです。

活動を区切るという押印のこの役割は、公文書よりも、むしろ、書画の「落款印」においてもっとも純粋な形で観察することができるように思われます。作品が完成したあと、その仕上げとして簡単な説明を書き込んだり、印鑑を押したりすることは、一般に「落款」と呼ばれます。当然のことながら、これは、作品の製作の最後の段階において、その作品全体に作者みずからが承認を与える儀式です。作品を書く/描く前に落款印が押されることはありえません。また、落款を欠いたまま遺された書画は、未完成である可能性を観る者に推測させるでしょう。

純粋な押印は、文書や書画の作成や製作のプロセスの最後に位置を占めるという理由によってのみ遂行されるものです。それは、つねに1つの「終わり」を告げるものとして、緊張と昂揚を惹き起こします。

たしかに、単なる事務手続きにおいて押印が求められる機会は、今後は少なくなるでしょう。しかし、押印が活動を区切るものであるかぎり、また、紙が表現と伝達の手段であるかぎり、印鑑がその純粋で原始的な役割を失うことはないに違いありません。

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