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純粋押印論(前篇)

by 清水真木

誰でも知っているように、一昨年のある時期から、さまざまな文書への押印の廃止が社会全体で進められています。政府や地方自治体は、押印の廃止を行政改革の目標の1つに掲げているようです。また、政府のこの方針を受け、官公庁以外でも、押印不要の文書が増えてきたように思われます。

たしかに、以前は、会社員でも自営業者でもない私でも、平均すると週に1回は書類に押印していたはずですが、今では、その数はいくらか減っています。

私が観察することができた範囲では、押印の廃止がもっとも遅れているのは、民間企業が社外とやりとりする文書のようです。しかし、民間企業が外部とあえて紙の形でやりとりする文書には、契約書を始めとして、どうしても紙でなければならない特殊な事情があるものが少なくないはずですから、これはやむをえないことであるのかも知れません。

ところで、私が自分で押印するために使用する印鑑の印影は、自分の姓(=清水)ではなくファーストネーム(=真木)です。外出するときに携帯している印鑑も、自宅で使用している印鑑も、「清水」ではなく「真木」です。ファーストネームに特別な愛着や「こだわり」があるからではありません。私の姓が平凡であるせいで、どの学校にも、また、どの職場にも、同姓の人間が必ずいるのです。だから、自分を他から区別する必要から、署名を求められるときにはフルネームを記し、押印を求められるときには「真木」の印鑑を使うことが私の習慣になっています。

とはいえ、私は、ファーストネームの印鑑を書類の押印に数え切れないほど使ってきましたが、これを咎められたことは一度もありません。書類を受け取る側にとっては、何か「赤いマーク」がついていればよいのであり、印影が何であるかは関係がないのでしょう。たしかに、一般的な文書に関するかぎり、押印に使う印鑑の印影は本人の姓でなければならないというルールはどこにもありません。したがって、形式的に考えるなら、私が、自分の姓名のどちらとも関係がない印影、たとえば「鈴木」という印鑑を使っても、問題はないはずです。少なくとも、私が「鈴木」という印鑑で押印したとしても、これが理由となって文書が無効になることはないはずです。

ただ、「赤いマーク」でありさえすれば何でもかまわないとするなら、そもそもわざわざ押印する意義が疑わしくなることは避けられません。押印の廃止というのは、煩わしい作業を除去するという意味では、おおむね合理的な措置であると言うことができます。(後篇に続く)

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