※この文章は、「『著作権継承者』という存在について(前篇)」の続きです。
いや、著者が存命ではない分、著作権の管理は、非常に面倒くさい「文化的な使命」を帯びることになります1 。なぜなら、著作物が不適切な形で使用されると、そのせいで、著者や著作物の価値が毀損されるおそれがあるからであり、かつ、著者自身にはもはやこれを回復することができないからです。このような事態を可能なかぎり防止し、また、発生してしまった事態は全力で収拾すること、さらに、可能なら、著者の価値を向上させることは、著作権継承者にとっては、逃れることのできない義務であると言うことができます。
2022年2月、祖父の著作『日本語の技術』(ごま書房、1977年)が中公文庫から再刊されます。このような旧い著作の再刊が適切に行われるかどうかチェックするのは、当然、著作権継承者の権利であり、義務でもあります。今回は、底本、解説を執筆してくださる方の人選、表紙と帯のデザインなどについて意見を編集部に伝えるとともに、著者自身に代わり、私が著者校正を行いました。言葉遣いや文字遣いの一部をどうしても変更しなければならず、しかし、編集部には判断がつかない場合があるからです。(これまでも、この点は基本的に同様でした。)
実際、著作権継承者が警戒を怠ると、著作物が不適切に使用されてしまう場合があります。(念のために言っておくなら、中央公論新社ではそのようなことは一度もありません。)
もっとも軽く、かつ、もっとも頻繁に発生するのは、「入試で問題文として使用した作品の出典表記の誤り」と「底本の選択の誤り」2 です。前者は、教材や入試問題集を製作している版元からの許諾申請にときどき発生します。(後篇に続く)
- 著作物の使用において著作権継承者に対価が支払われるのは、著作権の管理に公共の福祉の促進という意義が認められているからであると考えるのが自然です。 [↩]
- 1つの著作物に複数のバージョンがある場合、底本の選択の問題が発生します、このとき、著作権継承者として、私は、その時点でもっとも信用できる版を使用するよう求めることにしています。祖父の著作を例にとるなら、『倫理学ノート』の複数の版のうち、もっとも信用できるのは、校訂版に当たる『清水幾太郎著作集』第13巻(講談社)です。そこで、『倫理学ノート』の一部について、1972年の岩波書店版を底本としてこれを使用したい旨の申請があった場合、これをそのままは許諾せず、「『清水幾太郎著作集』第13巻(講談社)を底本とすること」という条件を付して許諾することになります。 [↩]