Home やや知的なこと いわゆる「学問の自由」と哲学について

いわゆる「学問の自由」と哲学について

by 清水真木

 21世紀初めの現在、わが国の大学の中には、「学問の自由」と呼ばれる権利に対しある不思議な態度をとっているところが少なくありません。

 たしかに、学問の自由は、憲法および各種の判例により、大学に対し——わが国では、大学に対してのみ——全面的に認められている権利です。また、一般に「先進国」に分類される各国の大学は、わが国の大学と同等の権利を直接または間接に法的に与えられているはずです。

 世界には、各大学の「学問の自由」が政府によって明確に制限されたり、具体的な研究が大学によって明確に禁止されたりするような国があります。「学問の自由」の形式的な制限は、中国、北朝鮮、ロシアからトルコやイランなどの中東諸国まで、権威主義的な体制の国家に共通の特徴です。法的に認められたり制限されたりするこのような「学問の自由」、いわば形式的な「学問の自由」は、社会生活全般における自由の一種であると言うことができます。

 たしかに、わが国においても、また、他のいわゆる先進諸国においても、特定の学問分野に対する補助金が減額されたり、補助金の交付の仕組が変更されたりすることにより、その分野の研究が——ときには意図的に、ときには結果として偶然に——阻害されることは珍しくありません。しかし、これは、一種の政策による誘導であり、明確な禁止とは性質を異にすると考えるのが自然です。

 そして、このような状況を考慮するなら、わが国では、「学問の自由」なるものが、大学に対し、また、研究者に対しても、少なくとも形式面では全面的に認められていると考えてよさそうです。

 けれども、本当の意味における「学問の自由」は、法的に認められるとともに、社会によって積極的に保護されることを必要とするものです。そして、この実質的な意味における「学問の自由」の理解に関し、わが国の社会は全体として、非常に低いレベルにとどまっており、そのせいで、この権利は、深刻な脅威にさらされる場合があるように私には思われます。

 その脅威とは、「学問の自由」に対する無関心と、この無関心に由来する鈍感です。私の狭い経験の範囲では、わが国の知的世界は、この無関心と鈍感に広く支配され、その結果、「学問の自由」は、形式的に制限されるまでもなく、少しずつ溶解しつつあるように見えます。

 学問の世界には、研究の遂行において「学問の自由」を特に必要としない分野があります。すなわち、現在の社会において支配的な規範の問い直しを直接には含まない分野です。このような分野の研究の遂行が必要とするのは、大抵の場合、自由ではなく、資金と設備であり、中国やサウジアラビアのような権威主義的な体制のもとにおいても研究が制限されることはありません。たとえば純粋数学の諸分野、獣医学、薬学などの研究にとっては、「学問の自由」についてナイーブであることは、さしあたり何の障害にもならないはずです。一部の応用的な社会科学もまた、ここに含まれるかも知れません。(もっとも、私は、これらの分野には不案内であるため、勘違いしている可能性があります。)

 これに対し、その研究において規範の問い直しがつねに遠望されている分野、つまり、「当たり障りのある見解」や「大衆の神経を逆撫でする主張」を避けられない分野については、「学問の自由」の保障が必須となります。言葉の広い意味における啓発(あるいは啓蒙)を使命とする分野、具体的には人文科学の全体、および、社会科学と自然科学の一部の研究者にとっては、自分が身を置く環境の「学問の自由」のレベルをその都度あらかじめ確認することが習慣となっているに違いありません。

 私の専門は哲学ですが、哲学は精神の束縛をもっとも嫌う分野であり、専門的な知見にもとづく完全に自由な発言が保障されないと、研究自体が成立しません。この意味において、哲学の専門家というのは、「学問の自由」に特に敏感であり、その侵害に対しもっとも烈しい拒絶反応を示す人々であるに違いありません。

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